マテオ・リッチ( A.D.1552〜A.D.1610)
イタリア人のイエズス会宣教師。明末に、フランシスコ・ザビエルの成し得なかった中国(北京)でカトリックの布教をおこなう。中国初の漢訳世界地図「坤輿万国全図」の作成など、西洋の科学技術を紹介した。中国名:利瑪竇。
マテオ・リッチ
中国でキリスト教を布教し文化的影響も与える
ローマのイエズス会附属神学校で学んだリッチは、神学に限らず、語学、哲学、数学、天文学と、高度な博識を身につけた。その後宣教師となりフランシスコ・ザビエルの成し得なかった中国布教へと旅立ち、まずインドのゴアへ就いた。同地で司祭となり布教後、マカオをへて北京にいたった。明の万暦帝に、ヨーロッパの時計や楽器などを献上し、上層階級や知識人らに歓迎された。
マテオ・リッチ(左)と徐光啓(右)マテオ・リッチは中国では利瑪竇と名乗り、中国の官人用の服を着た。北京で没した後は、ゴア(インド)に葬られた。
アジア諸地域の繁栄
東アジア・東南アジア世界の動向
明後期の社会と文化
宣教師の来航
明末の科学技術書の出版や儒教経典の実証的研究がおこなわれた背景には、当時中国へ来航したマテオ・リッチをはじめとするイエズス会宣教師がもたらした西洋の知識と技術とがあった。
インド航海路の開拓後、ポルトガル商人はさかんに東アジアへ来航した。彼らは1517年、広東付近に来航して以降、明朝と交易を開き、1557年にはマカオに居住権をえた。アジアへ向かうポルトガル商船には、商人ばかりでなくキリスト教宣教師も乗船していた。当時ヨーロッパでは、プロテスタントによる宗教改革がおこなわれていたが、カトリック側では対抗宗教改革(反宗教改革)運動のひとつとしてイエズス会(ジェズイット教団)が結成され(1534)、その重要な活動のひとつが海外布教であった。イエズス会の創立者のひとりであるフランシスコ・ザビエル(シャヴィエル 1506〜1552)は、はじめゴア・セイロン・マレー半島などで布教活動をおこない、その後、1549年日本に初めてキリスト教を伝えた。さらに彼は布教のため中国へ渡ったが、1552年、広州港外の上川島で病死した。
こののちイエズス会宣教師が中国へ来航し、積極的に布教活動をおこなうが、中国で最初に布教活動を認められたのは、マテオ・リッチ(1552〜1610)であった。彼はイタリアに生まれ、イエズス会宣教師として、はじめインドのゴアで布教活動をしていたが、1582年マカオに来航し、中国語を学習しながら江南各地で伝道した。中国人にキリスト教を理解してもらうために、カトリックの競技を漢文に翻訳した『天主実義』を著して布教した。
しかし彼は、布教に成功し信者を増やすためには、なによりも皇帝の許可をえることが重要であると考え、1601年に北京に就き万暦帝に謁見し、自鳴鐘(ヨーロッパ式時計)などを献上して好意をもたれた。そして翌年北京での活動を認められ、中国最初の教会を北京に建設した。リッチは北京での布教の際、まず宮廷内部への接近と、官僚層の信者の獲得をねらっていた。そこで彼は中国の伝統文化との衝突をさけ、官僚たちが来ていた儒学者の服装をまとい、中国語を習得して古典を学び、西洋学術である天文学・数学・地理学・砲術などの紹介・翻訳に努めた。こうした努力の結果、徐光啓(1562〜1633)・李之藻をはじめとする士大夫層の信者をも獲得した。
このようにマリオ・リッチは宮廷や官僚に接近するために、みずから中国語と中国文化を習得する一方で、中国人が興味を示した西洋学術を積極的に紹介した。彼は徐光啓の協力をえてエウクレイデス(ユークリッド)の幾何学を説いた。『幾何原本』を刊行し、さらに中国最初の世界地図である『坤輿万国全図』を李之藻の協力をへて刊行し、当時の中国の人々に初めて世界の大きさを知らせた。この『坤輿万国全図』は日本にも伝えられ、世界観を一変させるきっかけとなった。