アンリ4世(フランス王)( A.D.1553〜A.D.1610)
ブルボン朝初代フランス王(在位1589年8月2日 – 1610年5月14日)。ナバラ国王エンリケ3世(在位1572年6月9日 – 1610年5月14日)。アンリ3世でヴァロワ家が断絶し、ブルボン家のエンリケ3世がアンリ4世(フランス王)として即位した。改宗と「ナントの王令」で宗教戦争を終結。疲弊した国に平和と統一を取り戻したが、アンリ4世は狂信的なカトリック教徒によって刺殺された。
アンリ4世(フランス王)
改宗と「ナントの王令」で宗教戦争を終結
イベリア半島北部のナバラ王国の王に、若くして就いたアンリは、ユグノー(カルヴァン派)の盟主となった。しかしサンバルテルミの虐殺に際してはカトリックに改宗し、難を逃れた。やがてアンリ3世(フランス王)とギーズ公アンリ1世が対立すると、ナバラ王アンリは、アンリ3世(フランス王)に接近。子のいないアンリ3世の指名で、ナバラ王アンリは、アンリ4世(フランス王)として即位、ブルボン朝を創始した。しかし旧教徒はアンリ4世を王と認めなかった。アンリ4世は旧教国スペインとの対外政策も考慮し、再度カトリックに改宗した。そして「ナントの王令」を発し、新教徒に旧教徒と同等の権利を与えた。
これは、個人に宗教選択の自由を認めた最初の王令で、この結果、ユグノー戦争に終止符が打たれた。内政外交で手腕を振るったが、急進的旧教徒に暗殺された。
今でも国民に「良王アンリ」の名で親しまれているアンリ4世。女性好きで生涯に50人もの愛人がいたといわれる。
皮肉な最期を遂げたブルボン朝初代王
1572年8月18日、ナバラ家の貴公子アンリは、カトリーヌ・ド・メディシスの娘マルグリット・ド・ヴァロワ王女と婚礼をあげた。ユグノー戦争さなかのフランス。カトリックである王家が新教徒(プロテスタント)の旗手を婿に迎えれば、両者の対立が緩和するのではないか、という融和策だった。ところが数日後、結婚を祝う新教徒たちの集団にカトリックの一群がなだれ込み、流血騒ぎとなる。これが有名な「サンバルテルミの虐殺」で、新教徒数千人が惨殺された。こうして惨劇からスタートしたアンリ夫婦は、いわば形だけの結婚であった。そして事件から17年後、アンリはアンリ4世(フランス王)となって国王に即位した。国民の支持を得るため、新教徒からカトリックに改宗。1598年には「ナントの王令」を発して、国内の宗教戦争を終結させた。30年余り続いた内乱に幕を下ろし、疲弊した国はようやく平和と統一を取り戻した。だが皮肉なことに、アンリ4世は狂信的なカトリック教徒によって刺殺されるのだった。
1572年 サンバルテルミの虐殺に遭遇し、カトリックに改宗 19歳
1576年 プロテスタントに復帰
1589年 フランス王に即位
1593年 サイドカトリックに改宗
1598年 ナントの王令で戦争終結
1600年 メディチ家のマリー・ド・メディシスと再婚
1610年 暗殺される
パリ入城
1593年にカトリックに改宗したアンリ4世とその一行は、翌年の1594年3月22日、長年攻めあぐんできたパリへ無血入城を果たした。戦乱に疲れた市民の歓呼をうけての入城であった。図はパリ市長より市門の鍵を受けとっている光景。
死後
アンリ4世はサン=ドニ大聖堂に埋葬され、8歳の王太子ルイがルイ13世(フランス王)として即位し、成人する1617年まで母后マリーが摂政として政務を執った。
アンリ4世の遺体はフランス革命後の1793年に墓から暴かれ、頭部は切断されて行方不明となった。その後頭部は各地を転々としたが、死後400年経った2010年になって、法医学者の鑑定によって正式にアンリ4世のものと確認された。ミイラ化した頭部の保存状態は良好で、1594年の暗殺未遂の傷跡などが残っていたという。
参考 Wikipedia
子女
マリー・ド・メディシスとの間に6子をもうけている。
- ルイ13世(フランス王)(1601年 – 1643年) フランス国王
- イサベル・デ・ボルボン(1602年 – 1644年) フェリペ4世(スペイン王)妃
- クリスティーヌ・ド・フランス(1606年 – 1663年) ヴィットーリオ・アメデーオ1世(サヴォイア公)妃
- ムッシュ・ドルレアン(1607年 – 1611年) オルレアン公
- ガストン(オルレアン公)(1608年 – 1660年) オルレアン公
- ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(1609年 – 1669年) チャールズ1世(イングランド王)妃
同時代の人物
徳川家康(1542〜1616)
江戸幕府の創始者。三河国松平広忠の子。織田信長、豊臣秀吉らと相対しながら戦国の世を老獪に生き延びた。関ヶ原の戦いで敵を一掃した後、豊臣氏を滅ぼし天下をとる。