七年戦争(
A.D.1756〜B.C.1763)
プロイセンとオーストリアの対立を軸に、プロイセンはイギリスと、オーストリアはフランス、ロシアと結んだ国際戦争。関連して同期間に北アメリカ、インドの両植民地でイギリスとフランスの戦争(フレンチ・インディアン戦争)を展開した。プロイセンとイギリスが勝利し、プロイセンはヨーロッパの列強と認められ、イギリスの植民地帝国としての繁栄がもたらされた。
七年戦争
戦争データ
年月日:1754年または1756年〜1763年 | |
場所:ヨーロッパ、アメリカ州、アフリカ、アジア | |
結果:イギリス、プロイセン、ポルトガルの勝利 サンクトペテルブルク条約、ハンブルク条約、パリ条約(1763)、フベルトゥスブルク条約の締結 ヨーロッパにおいては戦争前の原状回復。植民地ではフランス、スペイン、イギリスの間で割譲 |
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交戦勢力 | |
グレートブリテン王国 アイルランド王国 アイルランド王国 イギリス領アメリカ プロイセン王国 ポルトガル ポルトガル王国(1762年以降) ハノーファー州 ハノーファー選帝侯領 ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領 イロコイ連邦 ヘッセン=カッセル方伯領 シャウムブルク=リッペ伯領 |
フランス王国 ヌーベルフランス 神聖ローマ帝国 ハプスブルク君主国 ザクセン選帝侯領 バイエルン選帝侯領 ロシア帝国の旗 ロシア帝国(1762年まで) スペイン スペイン王国(1762年以降) スウェーデン王国(1757年 – 1762年) アベナキ連合 ムガル帝国(1757年以降) |
指導者 | |
ジョージ2世(イギリス王)(1760年まで) ジョージ3世(イギリス王)(1760年以降) ウィリアム・キャヴェンディッシュ(第4代デヴォンシャー公爵)(1757年まで) トマス・ペラム=ホールズ(初代ニューカッスル公)(1757年以降) グランビー侯爵 ロバート・クライヴ ジェフリー・アマースト(初代アマースト男爵) フリードリヒ2世(プロイセン王) ハインリヒ・フォン・プロイセン(1726-1802) フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ ハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテン ジョゼ1世(ポルトガル王) シャウムブルク=リッペ伯ヴィルヘルム フェルディナント(ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯子) |
ルイ15世(フランス王) シャルル・ド・ロアン(スービーズ公) ルイ・シャルル・セザール・ル・テリエ マリア・テレジア カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン レオポルト・フォン・ダウン フランツ・モーリッツ・フォン・ラシ エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン アウグスト3世(ポーランド王) ルトフスキー伯爵 マクシミリアン3世ヨーゼフ(バイエルン選帝侯) エリザヴェータ(ロシア皇帝)(1762年まで) ピョートル3世(ロシア皇帝)(1762年) エカチェリーナ2世(1762年以降) ピョートル・サルトイコフ ヴィリム・ヴィリモヴィチ・フェルモル アレクサンドル・ブトゥルリン アドルフ・フレドリク(スウェーデン王) アウグスティン・エーレンスヴァルド カルロス3世(スペイン王) ニコラス・デ・カルバハル(サリア侯爵) ペドロ・パブロ・アバルカ・イ・ボレア(第10代アランダ伯) マヌエル・ロホ フアン・デ・プラド ペドロ・アントニオ・デ・セバーヨス アーラムギール2世(1759年まで) シャー・アーラム2世(1759年以降) シラージュ・ウッダウラ ムハンマド=アリー・ハーン |
参考 Wikipedia
概要
1756年8月から1763年2月までの7年間、プロイセンとオーストリア間に戦われた戦争。この戦争に関連して同期間に北アメリカ、インドの両植民地でイギリスとフランスの戦争(フレンチ・インディアン戦争)も行われた。オーストリア継承戦争に敗北したオーストリアのマリア・テレジアは、シュレジエンの回復を目指してザクセンなどドイツ諸邦やロシアと防御同盟を結ぶほか、16世紀以来の宿敵フランスと防御同盟を結んだ(1756)。一方、フランスとの植民地争奪戦を激化させていたイギリスは、1756年1月プロイセンと防御同盟を結んだ。8月フリードリヒ2世(プロイセン王)は機先を制してザクセンに侵入、七年戦争の戦端を開いた。プロイセンは包囲攻撃にあって一時は国家瓦解の危機に瀕したが、オーストリアと結んだ連合国 の間の利害が必ずしも一致せず、1762年ロシアにピョートル3世が即位すると、ロシアはプロイセンと講和を結んで戦線を離れ、植民地でイギリスに敗れたフランスも、1763年2月10日パリ条約(1763)を結び、北アメリカにおける領土を失った。イギリスは海外市場および植民地の争奪戦で優位に立ち、世界帝国としてほとんど絶頂に達した。フランスがドイツから撤兵したため、オーストリアも同年2月15日フベルトゥスブルクの和約を締結、オーストリアはマリア・テレジアの息子ヨーゼフ(のちのヨーゼフ2世)を父帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝)の死後、神聖ローマ皇帝として認めるという約束だけを得、プロイセンのシュレジエン領有を確認して戦争は終った。この戦争の結果、プロイセンはヨーロッパの列強と認められることとなる。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
危機の時代の主権国家
プロイセンとオーストリアの絶対王政
フリードリヒ2世(プロイセン王)(フリードリヒ大王 位1740〜1786)も、王領地の農民を保護し、産業の育成と軍備の強化に努めた。また、オーストリア継承戦争でシュレジエン(シレジア)を獲得し、七年戦争後のフベルトゥスブルク条約で再確認させた。
1740年に男子の相続者が絶え、父カール6世(神聖ローマ皇帝)の残した「プラグマティッシェ=ザンクティオン(王位継承法)」に従って、皇女マリア・テレジア(位1740〜1780)がハプスブルク家の領土をつぐと、フランスやプロイセンが異議を唱えて開戦した(オーストリア継承戦争 1740〜1748)。この戦争でマリア・テレジアはオーストリア王位の継承は承認されたが、シュレジエンの領有は認められなかった。
このためマリア・テレジアは、1756年には宿敵ブルボン家のフランスと結ぶという思い切った政策をとって、シュレジエンの奪回をめざした(七年戦争 1756〜1763)が、やはり成功しなかった。即位後のマリア・テレジアは、中央集権化をめざして行政・軍事・税制などの改革に努め、商工業の振興など富国強兵をはかることで、プロイセンに対抗しようとした。農民の保護をめざして農業改革を実践したのも、オーストリアの国力の回復をねらってのことであった。
1765年から母マリア・テレジアと共同統治を始めたヨーゼフ2世(位1765〜1790)は、カトリックを守るべき立場の神聖ローマ皇帝を兼ねていたにもかかわらず、宗教の自由を認め、教育や税制の改革、農奴解放をさえ試みたといわれる典型的な啓蒙専制君主であった。しかし、ネーデルラントやハンガリーで反乱がおこり、教会勢力の反発もあって、その政策は十分な効果をあげることができなかった。
ヨーロッパ諸国の海外進出
プラッシーの戦いとイギリスのアジア経営
ヨーロッパで七年戦争(1756〜1763)( プロイセンとオーストリアの絶対王政)が始まると、戦火はアジアにも広がった。1757年、カルカッタの北で書記ロバート・クライヴの率いるイギリス東インド会社がフランス・地方支配者(ベンガル州総督)連合軍を破り(プラッシーの戦い)、ベンガルにおけるフランス勢力は決定的な打撃をうけた。また、この戦いによって、ムガル帝国のベンガル州総督が完全にイギリスの傀儡になってしまったことで、イギリスのインド支配の基礎が固まった。敗れたフランスは、この戦いで本国の国家財政がしだいに傾き、革命の遠因とさえなった。
勝利したイギリスは、ベンガル地方における支配権を確立し、ディワーニ(徴税権)を獲得した。この結果、東インド会社はしだいに、商社から植民地統治機構に変わっていった。こうした領土支配は、1774年ウォーレン・ヘースティングズ(1732〜1818)が初代ベンガル総督となると、さらに強まった。18世紀後半以降、中国からの茶の輸入が激増したため、イギリス東インド会社は1773年、インド産アヘンを専売とし、清朝が鎖国(海禁)政策を強化したために唯一の交易港となった広東にこれを送って、支払いにあてた。このことが、のちにアヘン戦争をひきおこす引き金となった。
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