カトー・カンブレジ条約 (1559年)
フランスのカトー・カンブレジで締結した、長期におよんだフランスのヴァロワ家とハプスブルク家が争ったイタリア戦争(1494〜1559)の最終的な講和条約。フランソワ1世(フランス王)が死去して継いだアンリ2世(フランス王)と、カール5世(神聖ローマ皇帝)の退位により即位したフェリペ2世(スペイン王)の間で結ばれ、フランスはイタリア支配を断念した。
カトー・カンブレジ条約
カトー・カンブレジ条約に関連し、アンリ2世(フランス王)の妹マルグリット・ド・フランス(1523-1574)とエマヌエーレ・フィリベルト(サヴォイア公)、アンリ2世(フランス王)の娘エリザベート・ド・ヴァロワとフェリペ2世(スペイン王)が、それぞれ結婚することが定められた。
1559年6月30日、その祝宴の一環で行われたガブリエル・ド・ロルジュとの馬上槍試合において、アンリ2世(フランス王)は偶発的に右目を貫かれた。この治療にあたって、国王附きの筆頭侍医ジャン・シャプランは名医アンブロワーズ・パレを呼び、治療法の検討のために6人の死刑囚を実験台にした。また、エマヌエーレ・フィリベルト(サヴォイア公)はフェリペ2世(スペイン王)に解剖医アンドレアス・ヴェサリウスの派遣を依頼し、フェリペ2世(スペイン王)も応諾した(ヴェサリウスは7月3日に到着した)。
しかし、こうした周囲の努力も空しく、アンリ2世(フランス王)はこの傷が原因で7月10日に没した。
参考 Wikipedia