四帝分治制(テトラルキア)などの帝政改革で知られる3世紀のローマ皇帝ディオクレティアヌスが退位後余生を過ごした、巨大で豪奢な宮殿。スクリプト(ディオクレティアヌスの故郷)の街とともに世界遺産「スプリトのディオクレティアヌスの宮殿と歴史的建造物群」に登録されている。
ディオクレティアヌス宮殿
概要
アドリア海沿岸の港町スプリトは、四帝分治制(テトラルキア)などの帝政改革で知られる3世紀のローマ皇帝ディオクレティアヌス(244〜311)が余生を過ごした宮殿を中心に発展した街。スプリトは長い歴史のなかでさまざまな勢力に支配された。ローマ時代の遺跡の上には、のちの時代に増改築されたゴシック、ルネサンス、バロックといったさまざまな建築様式が混在し、独特な街並みとなった。
ディオクレティアヌスは健康を害し、305年5月にみずから帝位を退いた。故郷のスプリトで余生を過ごすため、アドリア海に面するこの都市に建てた巨大で豪奢な宮殿で、庭での畑仕事に励みながら余生を楽しんだ。
建設事業は引退前の293年に始まり、宮殿南側は海に面し、その城壁は170メートルから200メートルの長さで囲む(高さは15から20メートル)。城壁内の面積は38,000平方キロメートルで軍事要塞のようである。宮殿の水道は堅固な作りで、ディナル・アルプス山中のヤドロ水源から水道路で供給されていた。この潤沢な宮殿と周囲には、当時8,000人から10,000人の住民が暮らしていた。住民には、公園と余暇施設が与えられていた。
参考 Wikipedia
スプリトのディオクレティアヌスの宮殿と歴史的建造物群
3世紀後半から4世紀初頭にかけて建てられたディオクレティアヌス宮殿の遺跡は、街中に見られます。 大聖堂は中世に建てられ、古代の霊廟の材料を再利用しています。 12世紀と13世紀のロマネスク様式の教会、中世の要塞、15世紀のゴシック様式の宮殿、ルネッサンスとバロック様式の宮殿が保護地域の残りの部分を構成しています。
参考 UNESCO
ギャラリー
ローマ帝国時代のディオクレティアヌス宮殿の想像図
現在のディオクレティアヌス宮殿
スプリトの空撮写真