上座部仏教
主として南方に伝えられたため南伝仏教(南方仏教)と呼ばれ、スリランカ・ミャンマー(ビルマ)、タイ・カンボジアなどの仏教がこれに属し、南方仏教徒は北インドの口語に起源するパーリ語で書かれた経典を伝えている。
上座部仏教
アジア・アメリカの古代文明
インドの古代文明
新思想の成立
ガウタマ・シッダールタによって開かれた仏教は、いっさいのものは滅びる(諸行無常)という無常観にたち、人生を「苦」とみてその苦を克服する道を求めたものである。ブッダは正しい生き方を中道と称し、極端な苦行と快楽を否定し、8つの正しい道(八正道)の実践に努め、自我の欲望(煩悩)を捨てることによって解脱、すなわち涅槃(寂滅)の境地に達することができると説いた。こうした教理は主として解脱を求める出家者(比丘)にむかって説かれたものである。その一方でブッダは、一般の信者に対して、道徳的に正しい生き方と慈悲の尊さを説いている。その教えはとくに都市に住むクシャトリヤや商工業者に歓迎され、通商路に沿って伝えられた。
ブッダの死後、教えが失われたり異説が生じたりすることを恐れた弟子たちは、一堂に会して正しい説を決定した。これを第1回の仏典結集という。その後しばらく教団の統一が維持されたが(原始仏教時代)、ブッダの死後100年ほどして第2回の結集が開かれた頃から分裂を始め、多数の部派が誕生した(部派仏教時代)。それぞれの部派は自派の正統性を主張するため三蔵と称される経典を編集するにいたった。
マウリヤ朝の成立
マウリヤ朝は第3代のアショーカ王(前268〜前232)の時代に全盛期を迎えた。アショーカ王は即位後8年に半島東岸のカリンガ国を征服し、その結果マウリヤ帝国の領域は半島南端部をのぞく亜大陸全域におよぶことになった。しかしアショーカ王はこのときの惨状をみて後悔し、仏教への信仰を深めるとともに、武力を放棄し、万人の守るべき理法(ダルマ)による統治を理想として掲げるにいたった。そして、その理想を詔勅(法勅)として発布し、領内各地の岩石(摩崖)や石柱に刻ませ、さらに南東南端部や地中海方面にまで使節を派遣してその理想を伝えた。王はまたダルマの政治の一環として道路を整備し、人畜の病院をたてるなど社会事業にも力を注いだ。
ブッダの死後に発展を続けてきた仏教は、アショーカ王の保護下に亜大陸の辺境地まで伝えられた。アショーカ王はまた多数の仏塔(ストゥーバ)を建立し、第3回の仏典結集を援助したといわれる。スリランカに仏教が伝わったのもこの時代であった。同島の伝説によると、このとき仏教を伝えたのはアショーカの王子マヒンダであったという。スリランカはこれ以後、上座部仏教(テーラヴァーダ)と呼ばれる部派の根拠地となった。この部派の仏教は、のちに東南アジアへも伝えられ、今日にいたっている。
仏教の新展開
北伝と南伝
大乗仏教は南インドや東南アジアにも伝わったが、主として中国・朝鮮・日本・チベットなどで栄えたため北伝仏教(北方仏教)とも呼ばれる。これに対し、小乗仏教の部派のひとつ上座部仏教は主として南方に伝えられたため南伝仏教(南方仏教)と呼ばれ、スリランカ・ミャンマー(ビルマ)、タイ・カンボジアなどの仏教がこれに属する。
北方仏教徒がサンスクリット語で経典を編集したのに対し、南方仏教徒は北インドの口語に起源するパーリ語で書かれた経典を伝えている。なお「小乗」という呼称は軽蔑の意味を含むため好ましくない。便宜的に使われているが、正しくは「部派仏教」「上座部仏教(上座仏教)」などと呼ばれるべきであろう。
諸地域世界の交流
東西文物の交流
人物の往来
仏僧の往来
東南アジアの諸文明
民族国家の形成
タイ ドヴァーラヴァティー王国
モン人(タイ)
モン人は、ミャンマー人やタイ人の南下以前にミャンマー南部、タイ中部・西部などに居住し、7〜8世紀にメナム川(チャオプラヤ川)下流域にドヴァーラヴァティー王国を建国している(〜11世紀)。
その後もミャンマー南部のタトンやペグーなどに数王国をたてたが、ミャンマー人、タイ人の諸国に圧迫されてしだいに衰えた。なお、モン人の間では早くよりスリランカ系の上座部仏教が信仰されており、独特の寺院建築、仏像彫刻を残した。その文化は周辺諸民族に影響を与えている。今日モン人は少数民族として残存しているにすぎない。
タイ スコータイ王朝
半島の中央部、今日のタイの地には、はじめモン人・クメール人の国家が存在していたが、雲南方面から南下してきたタイ人は、クメール王国(アンコール朝)の衰えた13世紀半ばに、メナム川中流域のスコータイで最初の王朝(スコータイ朝 1257頃〜1438頃)を創始した。
全盛期の王はラームカムヘーン(位1279頃〜1299頃)である。この王朝では上座部仏教が保護され、寺院や塔がたてられ、仏像がさかんに造られた。これらの建築や彫刻の様式は、それ以後のタイ美術に大きな影響を与えている。タイ(シャム)文字がつくられたのもこの時代である。1351年に南方でアユタヤ朝がおこると、スコータイ朝はしだいに圧迫され、1438年にこれにとってかわられた。
ミャンマー パガン王朝
ミャンマー人は、はじめ南詔に服従していたが、しだいに南下してピュー人やモン人を駆逐あるいは吸収し、11世紀半ばに最初の統一国家をうちたてた。建国者のアノーヤター(1044〜1077)はイラワディ川中流域のパガンに都を定め(パガン朝)四周に領土を広げた。また彼はミャンマー南部のモン人の都タトンを攻略したとき、この地で信仰されていた上座部仏教を都にもたらした。それ以来ミャンマー人の間では、この仏教が信奉され今日にいたっている。
パガン朝では仏教寺院の建造が盛んで、首都は寺塔で埋め尽くされるほどであったが、こうした出費は国力をおおいに消耗させた。13世紀後半、パガン朝は元朝のフビライの遠征軍の度重なる侵寇をうけて衰え、ほどなく滅亡した。