推恩の令 (紀元前127)
推恩の令は、前漢の第7代皇帝の武帝(漢)が諸侯に対して、これまで嫡子のみが相続していた諸侯の領土を、必ず子弟に分けて相続させるように命じたもの。この結果、諸侯の領土は分割縮小され、その勢力は弱体化して、中央集権化をいっそう進めることになった。
推恩の令
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漢の興起
高祖(漢)は、秦の制度の多くを受け継いだが、秦が法律に基づいて厳しい政治をおこない、旧諸侯や民衆などの反発を招いて滅亡したことをふまえ、急激な中央集権化をさけて国内をまとめた。また租税・力役を軽減して民衆の生活の安定に努めた。都の長安を中心とする地域は直轄地として郡県制を行い、官吏を派遣して支配したが、東方などの遠隔地には劉氏一族や功臣を諸侯として領土を与える封建制を採用した。これが郡県制と封建制を併用した郡国制である。しかしながら、劉邦と続く呂后(高祖の皇后)の時代に功臣出身の異姓の諸侯はしだいに滅ぼされていき、諸侯は同姓(劉氏)のものに限られるようになった。
やがて漢では劉氏一族の諸侯の勢力がしだいに強まり、中央政府に反抗的になった。そこで中央政府は諸侯を抑制する政策を推し進め、第6代の景帝(漢)のとき、諸侯の領土の削減をはかった。その結果、ついに紀元前154年、呉王を中心とする劉氏一族の7人の諸侯が反乱をおこした(呉楚七国の乱)。反乱はわずか3ヶ月で鎮圧され、そののち諸侯は都に移され諸国には中央から官吏を任命するなどして諸侯の権力は弱められることになり、次の武帝(漢)の時代には、郡国制とはいうものの実質は郡県制と変わらない中央集権体制が確立した。
武帝の政治
武帝(漢)は、諸侯に対して推恩の令を発布してその勢力をいっそう弱め、また地方長官の推薦による官吏の任用をはかり(郷挙里選)、董仲舒の提案によって儒学が官学とされ、礼と徳の思想による社会秩序の安定化がめざされた。
さらにはじめて元号を定めるなど、皇帝の権力をいっそう強化して中央集権体制を確立した。こうして武帝の時代に漢帝国の最盛期が出現した。