大月氏国 (前140頃〜1世紀)
甘粛からタリム盆地東部にかけて居住していた、イラン系といわれる月氏が、匈奴の冒頓単于の攻撃をうけて西方のイリ盆地に移動したが、トルコ系の烏孫がイリ盆地に進出してきたため、月氏はさらに西トルキスタンのアム川流域に移動した。これを大月氏(前140頃〜1世紀)と呼ぶ。2世紀の半ばには、モンゴル高原から甘粛にかけて匈奴、イリ盆地に烏孫、アム川流域には大月氏という形勢が生まれた。
大月氏国
内陸アジア世界の変遷
遊牧民とオアシス民の活動
スキタイと匈奴
甘粛からタリム盆地東部にかけては、もともとイラン系といわれる月氏が居住し、「絹の道(シルク・ロード)」の出入り口を押さえて交易の利をおさめていた。匈奴の冒頓単于は、この利益に目をつけ月氏を攻撃したため、月氏は西方のイリ盆地に移動した。しかし、トルコ系の烏孫がイリ盆地に進出してきたため、月氏はさらに西トルキスタンのアム川流域に移動した。これを大月氏(前140頃〜1世紀)と呼ぶ。こうして2世紀の半ばには、モンゴル高原から甘粛にかけて匈奴、イリ盆地に烏孫、アム川流域には大月氏という形勢が生まれた。
大月氏
匈奴、烏孫に追われて西遷した月氏は、アム川流域(バクトリア地方)に入って大月氏となったが、(なお、黄河上流地方に残留した月氏は小月氏と呼ばれた)、このことを漢代の史書は「大月氏が大夏を征服して、この地に五翕侯(小国)をおいた」と伝える。ストラボンの『地理誌』には、紀元前2世紀の中ごろギリシア系のバクトリア王国が「アシオイ、パシアノイ、トハロイ、サカラウロイ」の4民族によって滅ぼされたことが記されているが、「大夏」はこの「トハロイ」の音訳とする説が有力である。これによれば、月氏はトハロイ(トハラ)を征服したことになるが、一方、月氏を「アシオイ」に当てはめる説もある。また五翕侯についても、これを征服者月氏の諸侯とする説と、月氏に服従した先住勢力(大夏)とする説があり、結論をみるにいたっていない。この五翕侯のひとつに貴霜(クシャン)翕侯があり、やがて他の4翕侯を倒してバクトリア地方を統一するが、これがクシャーナ朝である。
- スキタイと匈奴 – 世界の歴史まっぷ
東西を結ぶ交通路
ユーラシア大陸の東西を結ぶ交通路は紀元前から存在した。そのうちのひとつは、中央アジアのオアシスを相互に結びつけて形成されたものであり、東アジアとインド・西アジア・ヨーロッパを結ぶ幹線であった。この幹線上に古くから多くの国々が興亡した。
紀元前3世紀中ごろ、アム川上流の南岸にギリシア人が建国したバクトリア、その滅亡後、同じ地域に拠った大月氏、シル川上流に位置したフェルガナ(大宛)の勢力などがその例である。
オアシスの住民は、周辺の遊牧民や地地域の農耕民と商業活動によって、必需品を手に入れる必要があり、その商業は、やがて大規模な隊商を組んだ交易に発展した。
中央アジアは、中国、インドとヨーロッパ、西アジアなどを結ぶ交通路の大部分を占めていたため、この地の隊商貿易(キャラバン)は莫大な利益をもたらした。
このためオアシス都市は繁栄することになった。このような経過で、早くから大きなオアシス国家を形成したのがバクトリアで、ここにはアレクサンドロス3世の遠征以後、ギリシア人が数多く移住した。その後、この地域に移動してきたのが大月氏である。
大月氏は、この豊かな土地に満足して、匈奴を討つことを提案した張騫の誘いには応じなかった。
オリエントと地中海世界
古代オリエント世界
バクトリアとパルティア
バクトリア
もっとも早く離反したのはアム川上流域のバクトリアで、紀元前3世紀半ばにギリシア人総督が独立してバクトリア王国(紀元前255年〜紀元前139年)をたてた。その後バクトリア王国は、マウリヤ朝の衰退に乗じてインダス川流域のインド北西部にまで勢力をのばしたが、内紛がおこり、また西方のパルティアや北方のスキタイ系遊牧民に圧迫されて弱体化し、紀元前139年にはトハラ人によって滅ぼされた。この王国はギリシア人がたてた国であったため、ヘレニズム文化が栄えた。その文化はのちのクシャーナ朝に大きな影響を与え、ガンダーラ美術を生み出すことになった。
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
武帝の政治
武帝は即位後まもなく(紀元前139頃)張騫を西方の大月氏のもとに派遣し、匈奴を挟み撃ちにする約束をとりつけようとはかった。結局のところ、大月氏側にその意志がなかったため、その目的は果たせなかったが、これを契機に西域の事情が知られるようになった。
西北インドの情勢
クシャーナ朝
クシャーナ族(貴霜)はイラン系の民族で、かつて大月氏がバクトリア地方などにおいた5諸侯のひとつをだしていたが、1世紀後半にでたクシャーナ朝初代君主・クジュラ・カドフィセスとクシャーナ朝第3代君主・ヴィマ・カドフィセスの時代に強力となり、他の諸侯を倒したのちに南下し、西北インドを征服した。
このクシャーナ朝は2世紀半ばにでた第4代君主・カニシカ1世の時代が最盛期で、その領域は南はガンジス川の中流域におよび、北は中央アジアで後漢と接していた。また首都をガンダーラ地方のプルシャプラ(現ペシャーワル)におき、漢とローマを結ぶ交通路の中央を押さえて経済的にも栄えた。クシャーナ朝が発行した大量の金貨は、ローマ貨幣と同じ重量基準でつくられている。カニシカの家系はゾロアスター教を信奉していたが、彼はまたアショーカ王とならぶ仏教の保護者としても知られ、その治世に第4回の仏教結集がおこなわれたという。
カニシカの貨幣には仏像やギリシア・ローマの諸神、ゾロアスター教・ヒンドゥー教の諸神の像がうちだされており、この王が宗教的に寛大で、諸民族・諸文化の混在する大帝国をたくみに統治したことが知られる。
諸地域世界の交流
東西文物の交流
人物の往来
張騫
シルク・ロードの交通に、大きな役割を果たしたのが張騫(?〜紀元前114)の西域旅行である。張騫は、紀元前139年頃から紀元前126年頃にかけて前漢武帝(漢)の命を受けて大月氏国へ赴いた。当時漢に敵対する匈奴を挟み撃ちにするための同盟を結ぶことが目的であった。彼は途中匈奴に捕らえられ、10年近くを匈奴で過ごしたが、抜け出して大宛(フェルガナ)、康居をへて大月氏国にたどり着いた。しかしアム川の上流に安定した国家を営んでいた大月氏国では、武帝(漢)の同盟策は受け入れられなかった。こうして張騫は帰国したが、帰国後、彼のもたらした西域の情報は、中国人にとって極めて魅力的であった。名馬として知られ、1日に千里走ると言われた大宛の汗血馬や于闐(コータン)の玉は、極めて魅力的な品であった。また中央アジアにおいても、中国の使者がもたらした絹などの品々を珍重した。ここに、後世シルク・ロードと呼ばれる交易路が出来上がるのである。