明菴栄西 みょうあんえいさい( A.D.1141〜A.D.1215)
臨済宗開祖。教義:坐禅・公案(禅問答)。布教対象:京・鎌倉の上級武士、地方の有力武士。主著:『興禅護国論』『喫茶養生記』。中心寺院:建仁寺(京都)。幕府に保護され、将軍源頼家・北条政子も彼に帰依し、京都に建仁寺が建立された。宋から茶の種をもち帰り、栽培を奨励、その効能を知らしめたことでも知られる。朝廷が天台宗・真言宗と親密であったのに対し、幕府は禅宗、特に臨済宗を自己の宗教として位置づけた。
明菴栄西
茶を栽培し、喫茶の習慣を広めた禅僧
栄西は初め比叡山で天台の教えを学び、のち各地で修行後、宋に渡る。その地で禅宗に出会い、日本における初めての禅宗(臨済宗)の開祖となった。禅宗における坐禅は、精神の安定と統一を図り、釈迦の悟りの境地と一体化するための修行である。
この教えは、個人の精神修養を重んじる武家社会に受け入れられた。北条政子の帰依を受け、鎌倉の寿福寺の住持となる。また、源頼家の庇護を盾に京に進出、建仁寺を建立する。だが、延暦寺の末寺であり純粋な禅寺ではなかった。九州での布教中に禅宗停止の圧迫を受けた経験から、旧仏教との妥協を図ったのだろう。
また、栄西は宋から茶の種をもち帰り栽培を奨励、『喫茶養生記』を記し、その効能を知らしめたことでも知られる。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
中世社会の成立
武士の社会
北条氏の台頭
わずか12歳で将軍となった源実朝は、しだいに政務に精励するようになり、政所を整備して幕府の訴訟・政治制度の充実につとめた。従来、実朝は北条氏のまったくの傀儡であったと言われてきたが、最近では、彼の政治への取り組みを積極的に評価しようとする説が有力になっている。しかし、将軍としての実朝が、彼を擁する北条氏の強い影響下にあったことは疑いがない。彼は個人的には武芸よりも公家文化に親しみ、和歌や蹴鞠を愛好し、妻も貴族坊門家から迎えた。官位の昇進を望み、若くして高位高官にのぼっている。また、禅僧栄西や宋人陳和卿らと交わり、とくに後者の勧めに従って渡宋しようともした。この試みは船が座礁して果たせなかったが、実朝の武士に似つかわしくないこうした行動は、彼のおかれた過酷な環境と関係があったのかもしれない。
鎌倉仏教
栄西と臨済宗
禅宗は坐禅することによって人間に内在する仏性(仏としての性質)を自覚し、悟りに達しようという「自力」の教えである。禅自体は奈良時代に日本に伝えられていたが、宋(王朝)で盛んになり、栄西が改めて日本に紹介した。これが臨済宗である。栄西は備中吉備津宮の神主の子で、比叡山で台密を学んだのち、 2度にわたつて入宋した。帰国して京都での布教を試みたが比叡山の反対にあい、鎌倉に下った。座禅を組み、師から与えられた問題(公案)を考え抜いて悟りに達する、という厳しい修行方法をとり、これが武士の気風と合致して多くの信者を得た。将軍源頼家・北条政子も彼に帰依し、京都に建仁寺が建立された。栄西の主著は『興禅護国論』で、禅宗が国家に必要なことを説いている。栄西の死後、禅宗は執権北条氏の帰依を受けて発展した。北条時頼は鎌倉に建長寺を建て、京都から蘭渓道隆(1213〜78)を招いた。北条時宗は円覚寺を建て、宋から無学祖元(1226〜86)を招いた。元(王朝)から送られた一山一寧(1247〜1317)は、はじめ間諜ではと警戒されたが、のち北条貞時の暑い崇敬を受けた。朝廷が天台宗・真言宗と親密であったのに対し、幕府は禅宗、特に臨済宗を自己の宗教として位置づけた。
鎌倉仏教
系統 | 浄土宗系(他力本願) | 天台宗系 | 禅宗系(不立文字) | |||
念仏 (南無阿弥陀仏) | 題目 (南無妙法蓮華経) | 禅 | ||||
宗派 | 浄土宗 | 浄土真宗 | 時宗 | 日蓮宗 | 臨済宗 | 曹洞宗 |
開祖 | 法然 | 親鸞 | 一遍 | 日蓮 | 栄西 | 道元 |
教義 | 専修念仏 | 一向専修 悪人正機 | 踊念仏 賦算 | 題目唱和 | 坐禅 公案 (禅問答) | 只管打坐 |
布教対象 | 京都周辺の 公家・武士 | 関東、のちに 北陸・東海・ 近畿の 武士・農民、 とくに下層農民 | 全国の武士・ 農民層 | 下級武士・ 商工業者 | 京・鎌倉の 上級武士、 地方の 有力武士 | 地方の 中小武士・ 農民 |
主著 | 選択本願念仏集 一枚起請文 | 教行信証 歎異抄 | 一遍上人語録 | 立正安国論 開目抄 | 興禅護国論 喫茶養生記 | 正法眼蔵 正法眼蔵随聞記 |
中心寺院 | 知恩院(京都) | 本願寺(京都) | 清浄光寺(神奈川) | 久遠寺(山梨) | 建仁寺(京都) | 永平寺(福井) |
建仁寺 The Oldest Zen Temple Kenninji
同時代の人物
サラーフッディーン (1138〜1293)
アイユーブ朝初代スルタン(在位1169〜1193)。シリアのザンギー朝からエジプトに派遣されたクルド人の将軍サラディンは、ファーティマ朝の宰相となって実権を握り、アイユーブ朝を開いた。アッバース朝カリフの宗主権を承認し、スンナ派の信仰を復活してイスラーム世界の統一をはかった。エジプトにイクター制を導入して軍政を整え、対十字軍戦争を積極的に推し進め、1187年にはティベリアス湖西方のヒッティーンの戦いで十字軍を破り、約90年ぶりに聖地エルサレムを奪回した。