柔然(
A.D.402〜A.D.555)
匈奴が衰えたあとのモンゴル高原で、モンゴル系またはトルコ系の鮮卑が有力となり、慕容部のたてた前燕・後燕、拓跋部のたてた北魏など五胡のひとつとして華北に建国して鮮卑が中国北部に移動したため、かわって5世紀のモンゴル高原で、モンゴル系の柔然が有力となった。北魏と対立し、555年柔然に滅ぼされた。6世紀に中央ヨーロッパに移動し、ビザンツ帝国やフランク王国に侵入をくりかえしたアヴァール人と同族説もある。
柔然
首都:不明
内陸アジア世界の変遷
遊牧民とオアシス民の活動
内陸アジアの新動向
匈奴が衰えたあとのモンゴル高原では、3世紀の半ば以降、モンゴル系またはトルコ系の鮮卑が有力となり、五胡のひとつとして華北に建国するにいたった。慕容部のたてた前燕・後燕、拓跋部のたてた北魏(中国北部を統一する)などがその例である。こうして鮮卑が中国北部に移動したため、かわって5世紀のモンゴル高原では、モンゴル系の柔然が有力となった。
同じころ、中央アジアではトルコ系またはイラン系の遊牧民エフタルが強大となった。エフタルは、西北インドにも侵入してグプタ朝を圧迫し、「フーナ(白いフン)」と呼ばれて恐れられた。
6世紀になると、アルタイ山脈を本拠地とするトルコ系の突厥(トルコ系騎馬遊牧民の国家。)が目覚ましい発展をとげた。
突厥ははじめ柔然に服属していたが、優れた製鉄技術(アルタイ山脈は鉄鉱の産地であった)や「草原の道」の交易の利によって力を蓄え、木汗可汗のとき柔然を滅ぼし(555)、ササン朝のホスロー1世と結んでエフタルを滅ぼして(567)、モンゴル高原からカスピ海にいたる大帝国を樹立した。
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カール大帝(シャルルマーニュ)
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