瓢鮎図 ひょうねんず
この絵は山水画の始祖といわれている如拙が、足利義持の命により心血注いで描き、現存する彼の作品の中で最高傑作といわれています。
男が「ひょうたん(瓢)」で「なまず(鮎)」を捕まえようとする禅問答(公案)を表す。男やナマズの描写は、巧みに表現され、遠景や手前の樹木の描き方など、すでに山水画の構成がみられる。上部には、当時の京都五山の名僧31人の詩賛がある。
瓢鮎図
この絵は山水画の始祖といわれている如拙が、足利義持の命により心血注いで描き、現存する彼の作品の中で最高傑作といわれています。
「ただでさえ捕まえにくいなまずを、こともあろうに瓢箪で捕まえようとする。」この矛盾をどう解決するか、将軍義持は当時の京都五山の禅僧31人に賛詩を書かせました。高僧連が頭をひねって回答を連ねた様子は正に壮観です。
参考 退蔵院
解説
不思議な絵 ―如拙筆「瓢鮎図」― | 京都国立博物館 | Kyoto National Museum
禅の至宝!国宝「瓢鮎図」に書かれているのは、大喜利!? 知恵くらべ!? | INTOJAPAN / WARAKU MAGAZINE
武家社会の成長
室町文化
北山文化
この五山の禅寺を中心に禅僧たちによる中国文化の影響の強い文化が生まれ、武家文化の形成にも大きな影響を与えた。禅僧たちには中国からの渡来僧や中国で学んだ留学僧が多く、彼らは禅だけでなく禅の精神的境地を具体化した水墨画・建築様式などを広く伝えた。水畢画では、南北朝時代にも黙庵や可翁らがすでに活躍していたが、この時代になると、『五百羅漢図』などを描いた明兆(兆殿司 1352〜1431)、妙心寺退蔵院の『瓢鮎図』で知られる如拙(生没年不詳)、如拙の弟子で『寒山拾得図』『水色巒光図』などを描いた周文(生没年不詳)ら、多くの優れた画僧が登場した。また五山の禅僧たちの間で宋学の研究や漢詩文の創作も盛んになり、足利義満のころ絶海中津(1336〜1405)· 義堂周信(1325〜88)らが出て、いわゆる五山文学の最盛期を迎えた。彼らは、中国文化に対する豊富な知識から都府の政治・外交顧問としても活躍し、中国・朝鮮に対する外交文書の起草なども行った。このほか、五山版と呼ばれる禅の経典・漢詩文集などの出版事業も行うなど、中国文化の輸入に禅僧たちが果たした役割はきわめて大きかった。