慈照寺 じしょうじ(銀閣寺)
正式名称を東山慈照寺といい、臨済宗相国寺の塔頭寺院の一つ。室町幕府8代将軍足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられた。15歳にして将軍職を継いだ足利義政は、生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げた。世界遺産「古都京都の文化財」。
慈照寺
正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。九歳にして家督を、十五歳にして将軍職を継いだ足利義政は、生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げました。銀閣寺は美の求道者ともいえる義政の精神のドラマを五百年後の現代にも脈々と伝えています。
参考 臨済宗相国寺派
銀閣の庭園は善阿弥の子の二郎と二郎、孫の又四郎によって作庭されたという。
武家社会の成長
室町文化
東山文化
銀閣
銀閣は東山山荘の仏殿として建てられた2層の楼閣建築で、当初は観音殿と呼ばれていた。下層は書院造で心空殿、上層は禅宗様で潮音閣と呼ばれる。東山山荘は、義政の死後、その遺言にしたがって慈照寺という禅宗寺院に改められたため、銀閣も慈照寺銀閣と呼ばれるようになった。他に阿弥陀三尊を祀る東求堂(持仏堂)などがある。
東山文化は、禅の精神に基づく簡素さと、連歌の世界から発達した幽玄・侘の美意識(枯淡美)を精神的な基調としていた。北山文化のころにみられた唐物に対する執着が弱まり、和物に対する関心が高まってきたことも大きな特色の一つである。銀閣の下層及び東求堂の一室同仁斎にみられる書院造は、このような東山文化の雰囲気をよく表しているとともに、近代の和風住宅の原型となった点でも重要な意味をもっている。
左:慈照寺東求堂同仁斎 義政の書斎であった同仁斎は、4畳半で左側に3尺の違い棚、正面に1間の付書院(つくりつけの机)がついている。右:東求堂の間取り 仏間・書斎(同仁斎)など4室からなる。