善阿弥 ぜんあみ( A.D.1386〜A.D.1482)
東山文化の時代、専門の庭師として名が残る初めての人物。「河原者」という蔑視される身分であったが、足利義政はその才能を愛し、破格の厚遇を与え、東山山荘の庭をつくった。子の小四郎、孫の又四郎も同じく作庭家として活躍した。義政の周辺には、このような作庭・花道・茶道などの芸能にひいでた人々が多く集められ、東山文化の創造に貢献し、阿弥号を名乗った。
善阿弥
専門の庭師として名が残る初めての人物
足利義政は生涯を通して「築庭」に情熱を注いだ。それを担当したのが、庭師・善阿弥である。善阿弥は「河原者」という蔑視される階級に属していたが、義政はその才能を愛し、破格の厚遇を与えた。重病に陥った時は薬を贈ったばかりか、高僧に命じて回復の祈願を行っている。
善阿弥も義政の期待に応え、相国寺山内の睡隠軒や蔭涼軒の庭など、その意にかなう仕事を実現していく。義政は、自身の築庭の集大成というべき東山山荘完成の直前、病により没した。銀閣の庭園は善阿弥の子の二郎と二郎、孫の又四郎によって作庭されたという。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
武家社会の成長
室町文化
東山文化
庭園
書院造の住宅や禅宗様の寺院には、禅の世界の精神で統ーされた庭園がつくられた。岩石と砂利を組み合わせて象徴的な自然をつくり出した枯山水はその代表的なものであり、竜安寺石庭や大徳寺大仙院庭園などの名園がつくられた。作庭に従事したのは河原者(山水河原者)と呼ばれる賤民身分の人々であったが、東山山荘の庭をつくった善阿弥(生没年不詳)はその代表的な人物であり、彼の子の小四郎、孫の又四郎も同じく作庭家として活躍した。
将軍義政の周辺には、このような作庭・花道・茶道などの芸能にひいでた人々が多く集められ、東山文化の創造に貢献した。その多くは善阿弥や能の世阿弥のように阿弥号を名乗り、なかには将軍に近侍して身辺の雑務にあたる同朋衆となり、実務に従事するかたわら、美術工芸品の鑑定や座敷飾りなどに能力を発揮した者もいる。とくに立花の名手であった立阿弥や、水墨画と連歌にすぐれ、三阿弥と称された能阿弥(1397〜1471)・芸阿弥(1431〜85)・相阿弥(?〜1525)の三代は有名である。
旧大乗院庭園
興福寺の門跡寺院である大乗院の寛治元年(1087年)創建と同時に築造された庭園は、12世紀における平重衡による南都焼討で被災し、興福寺別院である定禅院跡地に移築されたが、ここも15世紀中期の徳政一揆で荒廃したため、復興を目的に尋尊が銀閣寺庭園を作った善阿弥父子を招いて池泉回遊式庭園を改造させた。以降、明治初頭まで南都随一の名園と称えられた。
参考 Wikipedia