安土城 あづちじょう
- 所在地:滋賀県近江八幡市安土町
- 城の形態:梯郭式の山城
- 天守の形態:五重・六階・地下一階、望楼型、独立式
- 築城年:1576(天正4)年
- 築城者:織田信長
- 文化財指定区分:国指定特別史跡
- 主な遺構:天主台・曲輪・石垣・塀など
安土城
城データ
安土城 城データ
所在地 | 滋賀県近江八幡市安土町 |
交通アクセス | JR安土駅から徒歩20分 |
城の形態 | 梯郭式の山城 |
天守の形態 | 五重・六階・地下一階 望楼型、独立式 |
築城年 | 1576(天正4)年 |
築城者 | 織田信長 |
文化財指定区分 | 国指定特別史跡 |
主な遺構 | 天主台・曲輪・石垣・塀など |
別称 | なし |
近世城郭の見本となった織田信長の居城
天下人の居城
織田信長は「天下布武」の夢を実現する一歩として、また自らの威光を世に知らしめるために、安士城を築城した。安士城はこれまでの城郭建築の常識をくつがえす、斬新な趣向を凝らして造られた城であり、それまでの日本建築史上の建築物を凌駕するような壮大さと豪華さを備えた、まさに天下人にふさわしい城であった。
信長が安士に城を造ろうと考えたのは、築城工事が始まる8年前のことだった。上洛戦のときに攻略した、六角承禎の観音寺城は、わずか1日で落城したが、信長はこの城に自身の理想を重ねたという。信長の脳裏に浮かんだのは、観音寺山(撒山)を主峰に琵琶湖に張り出す安土城の完成図だったのだろう。
長篠・設楽原の戦いに勝利し天下人に近づいた信長は、1576年(天正4)の正月、標高約199mの安士山に城を築きはじめた。この当時、信長の勢カ範囲は尾張だけでなく、美濃・伊勢・越前・近江などへと広がっていた。領地が広がるにつれて、これまでの居城であった岐阜城では東に寄りすぎており、次第に不都合を感じるようになっていたのだ。領地すべてに目が行き届く地、天下取りを目指すのに都合のいい場所、天下統一を成し遂げた際に役立つ城、信長の欲する条件を兼ね備えた地が安土だったとも考えられる。
普請奉行は丹羽長秀
現在の安土城の周辺は田園地帯となっているが、築城当時は北と東西の山麓にまで琵琶湖の湖水が迫る岬のような地形であり、天然の要害であった。難攻不落の安士城は、東西を結ぶ交通の要地で、京都を睨み、全国に目を配るのに最適な立地であったのだ。
信長は普請奉行として丹羽長秀を任命し、大急ぎで工事にあたらせた。奉行の仕事は多岐にわたる。石材や木材など、城の普請に関わる資材の確保や石エ、大エ、絵師などの職人集団の統率をはじめ、膨大な物資と人員を計画的に調達するとともに、効率よく動かす必要があった。人や物、金の管理能力に長け、信長の重臣として諸将らを動かすことができる人物として、長秀に白羽の矢がたったというわけだ。長秀は能力を遺憾なく発揮し、信長の思い描く天下の姿を、安土城として具現化するために全力を尽くした一刻も早く城を完成させろと急かす信長の命に応え、満足のいく城を完成させた長秀。信長が彼を奉行に据えたのは、間違いではなかった。
安上城は、大規模な城にもかかわらず、ありえない速さで築城された。着工からわずか1か月後には、人海戦術によってすでに仮橋ができあがったという。この時点で信長はさっさと岐阜城を出てしまい、工事途中の安土城に移り住んだ。信長は安土城に、従来の城にはありえない設計と豪華な設備を望んでいる。たとえば、これまでの城には見られなかった高石垣の整備がそれだ。山の上に大きな石を運び上げ、石垣を作る作業は、長秀にとっても相当の無理難題であったことが想像できる。しかし長秀は信長の期待に応え切り、1579年(天正7)5月には無事に天主が完成し、信長が天主に移り住んでいる。
本能寺の変の余波
順風満帆に見えた信長の天下取り。しかし信長は1582年(天正10)6月2日、家臣の明智光秀の謀反によって自刃。天主完成からわずか3年後のことであった。安土城に本能寺の変の第一報が届いたのは、2日の巳刻。今でいう午前9時から12時ころのことであった。
この当時、織田軍は各地で戦いをくり広げていたため、安上城には信長の側室や子どものほか、蒲生賢秀ら少人数の部将が留守居衆として城を守っているのみだった。本能寺で信長を討ち取った光秀は、すぐにも安土城へと攻めかかってくるに違いないと、賢秀らは予想したが、明智軍を迎え撃つだけの兵力はない。
留守居衆らは、安土城をどうすべきかについて議論を戦わせた。「財宝を持ちだした上で城に火をかけるべし」との声もあったが、賢秀は「城を焼くのはしのびない」と、城をそのままにして逃げる道を選んだ。翌3日、賢秀は息子の蒲生氏郷と協力し、信長の側室や子どもを連れて、自らの居城である日野城に退去した。さまざまな事情があったとはいえ、安土城はあっさりと見捨てられたのである。
焼失した天主
信長を討ち取った光秀は、すぐにでも安士城に人ろうと、京都から近江に入る。途中で瀬田の唐橋が落とされて進軍できないなどの問題もあって遅れたために、ようやく5日に安士城に入城。すでに賢秀らが信長の妻子を連れて出て行っているため、戦いもなく安土城を手に人れた。天下人の後継者を目指す光秀は、ここから忙しく動き始める。城で天皇からの勅使を迎え、次に坂本城に帰った。この後の6月13日、山崎の戦いで光秀は豊臣秀吉に敗北。居城の坂本城を目指して敗走する途中、京都山科の小栗栖で落ち武者狩りに遭い、殺されたとされる。
光秀の留守中、安土城を守っていたのは光秀の娘婿明智秀満であった。山崎の戦いで光秀が敗北したことを知った秀満は、本拠である坂本城に逃げてしまった。またしても安土城は捨てられてしまったのだ。
誰もいなくなった安土城は、6月15日に突如燃えた。この火災によって天主と本丸が焼失している。吉田兼見の『兼見卿記』によると、火災の原因は放火。しかし誰が火をつけたのかは定かではなく、今日まで議論の的になっている。退去するときに秀満が火をかけた説、信長の次男織田信勝が明智の残党を探索する際に放った火が飛び火した説などが唱えられてきた。しかし最近の発掘調査の結果、本丸から出火した疑いが濃厚になっており、織田信雄が本丸に火を放ったとの説が有力視されるようになっている。
各階の構造
安土城天主の内部は地上六階、地下一階で、地階が信長所蔵の宝物を納めた蔵、一階から三階が武家の高級住宅建築の様式である書院造殿舎、四階が屋根裏階、五階が八角形平面で、最上階である六階は三間(約6.3m) 四方の正方形であった。五階と六階には高欄付きの廻縁が設けられていた。蔵である地階と屋根裏階である四階を除くすべての階は、当代随一の画家、狩野永徳とその一門によって豪華な障墜画が描かれていた。
一階から三階は、動物や花、中国の故事を題材にしたものがほとんどである。五階は、釈迦が説法している様子や十大弟子といった仏教を題材とした画が、また天井には天女が描かれていた。六階は、中国の偉大な君主である三皇五帝や著名な聖人である商山四皓の画題がとられていた。
高さは天主台石垣上から最上重の棟木まで16 間半(約33m) であり、現代建築の十階建を超える超高層建築であった。現存する天守と比較すると、姫路城天守とほぼ同じ高さである。
天主の一階は不等辺多角形の天主台の形に合わせて、不等辺八角形で、その上の二階もほぼ同形だった。一階の屋根である一重目は腰屋根(庇のように短く出た屋根)として、二階の屋根である二重目は四隅を欠き落とした変則的で巨大な入母屋屋根とする。
三階はその屋根に中ほどまで埋まり、その上の三重目は二重目とは棟の向きを直交させる人栂屋屋根とする。四階は、三重目の屋根の中にできる屋根裏階である。そしてその上に八角形の五階(四重目)と正方形の六階(五重目)からなる望楼部分を載せる。甚部(一階から三階)に人付屋屋根をもち、その上に望楼(五・六階)を載せた古式な望楼型天守であった。
安土城年表
- 1576年(天正4)
1月、織田信長が丹羽長秀を普請奉行に命じて築城開始 - 1577年(天正5)
6月、城郭が一応の完成。「安土山下町中」に楽市楽座の掟書を発布
7月、天主工事に着手 - 1578年(天正6)
1月、諸侯を集めて茶会開催 - 1579年(天正7)
5月、天主が完成し、信長が移り住む - 1581年(天正9)
イエズス会巡察師ヴァリニャーノに安土城を描いた屏風絵を贈呈 - 1582年(天正10)
5月15日、明智光秀を饗応役に徳川家康を接待
6月2日、本能寺の変で信長が自害
6月5日、光秀が安土城に入城
6月13日、山崎の戦いにて光秀敗死
6月14日、安土城守将の明智秀満は坂本城に逃れる
6月15日、天主・本丸などが焼失
6月27日、清須会議にて三法師(織田秀信) の安土入城が決定 - 1585年(天正13)
豊臣秀次の八幡山城築城に伴い、廃城 - 1600年(慶長5)
関ヶ原の戦い後、大坂方の再利用を防ぐため石垣の一部を崩して埋める - 1918年(大正7)
安土城保存を目指した「安土保勝会」が設立 - 1926年(昭和1)
安土城跡が史蹟に指定される - 1927年(昭和2)
城跡に「安土城址」の石碑が建てられる - 1940年(昭和15)天主台発掘
- 1952年(昭和27)
国の特別史跡に指定 - 1960年(昭和35)
城跡修理に着手、1975 年(昭和50)まで継続される - 1978年(昭和53)
安土城跡実測図(縮尺1000 分の1)を作成 - 1989年(平成1)
2009 年までの「調査整備20年計画」が始まる - 1992年(平成4)
セビリア万国博覧会に、「天主指図」をもとに復元された安土城天主の一部を出展 - 1998年(平成10)
城跡の大手道の復元整備工事が完了する
幕藩体制の確立
織豊政権
織田信長の統一事業
1575(天正3)年、信長は三河の長篠合戦で大量の鉄砲と馬防柵を用いた画期的な戦法で、宿敵武田信玄の子武田勝頼(1546〜82)が率いる騎馬軍団に大勝し、翌年、近江に壮大な安土城を築き始めた。
安土城
安土城は琵琶湖岸の小山の上に築かれた平山城で、中央には7階建ての壮大な天守(天守閣)がつくられ、織田信長の居所とされた。天守の外壁や軒瓦には金箔が押され、内部には狩野永徳らに描かせた障壁画など数々の豪華な装飾がほどこされた。信長は築城と同時に城外に摠見寺という寺も建立したが、信長は自らをその本尊と位置づけ、城下の人々に参拝させたという。信長は1579(天正7)年に岐阜城を子の信忠(1557〜82)にゆずって安土城に移ったが京都ににらみをきかせながら、しかも一定の距離をおいた安土の地は、信長の伝統的な権威に対する姿勢をよく示している。安土城は本能寺の変の際の混乱で焼失したが、その建築は近世城郭建築に大きな影響を与えた。