浅井長政 あさいながまさ( A.D.1545〜A.D.1573)
近江の戦国大名。浅井父祖2代の近江北半の経営を受継ぎ、初め六角氏に臣従していたが、1563年織田信長の妹お市を正室に迎え勢力を拡張。信長とともに観音寺城を陥れて、六角義賢父子を追い、さらに朽木元綱を従え、近江の大半を領した。その後信長が天下統一を志向するに及び、長政は朝倉義景と連合して信長にそむき(姉川の戦い)、その打倒をはかったが、味方した比叡山は焼打ちにあい、朝倉義景が滅ぼされ、ついには居城小谷を信長に攻撃され落城、自害。浅井氏は滅亡した。浅井長政の娘はのちに豊臣秀吉の側室(淀君)、京極高次、徳川秀忠の夫人となった。
浅井長政
信長との同盟を破棄し朝倉との信義に死した男
1567年(水禄10)、近江国の大半を支配下に置いた浅井長政は、尾張と美濃を統一した織田信長の妹。お市の方を正室に迎え、信長と同盟を結ぶ。しかし1570年(元亀1)信長が越前の朝倉義景を攻撃すると、長政は義兄の信長を背後から襲い、信長勢を危機に追い込んだ。以後、長政は朝倉氏とともに信長と敵対する道をとることとなる。なぜ長政が信長に反したのか。信長との同盟の際、「織田は独断で朝倉を攻めない」という条件がつけられていた。長政にとって、信長の越前侵攻は裏切り行為であったのだ。信長への敵対がはっきりした以上、それを貫くよりほかはない。2か月後、信長は早くも復讐戦を挑んできた。長政は朝倉勢とともに近江の姉川にこれを迎え撃つが敗北(姉川の戦い)。1573年(天正1)、将軍義昭を追放した信長は、まず越前に朝倉義景を討ち、返す刀で小谷城を猛攻。妻子を逃がしたあと、長政は父・久政とともに城内で自害した。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
幕藩体制の確立
織豊政権
織田信長の統一事業
1570(元亀元)年、信長は姉川の戦いで近江の浅井長政(1545〜73)と越前の朝倉義景(1533〜73)の連合軍を破り、翌年には浅井・朝倉方に加担した比叡山延暦寺を焼打ちにし、強大な宗教的権威と経済力を誇った寺院勢力を屈伏させた(延暦寺焼打ち)。1573(天正元)年、信長によってしだいに権限を奪われつつあった足利義昭は、将軍権力の回復をめざして浅井・朝倉・武田の諸氏と結んで信長に反抗したが、武田軍が信玄の急死により進軍を中止したために利を失い、信長は浅井長政・朝倉義景を討つとともに、義昭を京都から追放し、室町幕府を滅ぼした(室町幕府の滅亡)。1575(天正3)年、信長は三河の長篠合戦で大量の鉄砲と馬防柵を用いた画期的な戦法で、宿敵武田信玄の子武田勝頼(1546〜82)が率いる騎馬軍団に大勝し、翌年、近江に壮大な安土城を築き始めた。
参考