福島正則
福島正則(岩松院蔵)©Public Domain

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福島正則 ふくしままさのり( A.D.1561〜A.D.1624)

安土桃山~江戸時代初期の武将。幼時から豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。文官派の石田三成とそりが合わず、秀吉死後は公然と徳川家康に与した。関ヶ原の戦いでは先陣を務め勇戦し、広島城主(49万8000石)となる。しかし、武家諸法度の城郭修補の項に違反した理由で改易され、のち信州川中島(4万5000石)へ転封された。

福島正則

秀吉の忠臣 関ヶ原では東軍の先陣に

幼時から豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは七本槍の筆頭に挙げられる活躍を見せ、ほかの6人の加増が3000石に対し、正則だけは5000石の加増を受けた。秀吉の覇業を武の部分で大いに助け、譜代の家臣団をもたない秀吉にとって正則は子飼いの将であり、豊臣家の柱となるべき存在だった。文官派の石田三成とそりが合わず、秀吉死後は公然と徳川家康に与した。関ヶ原の戦いでは先陣を務め勇戦し、安芸備後に50万石を与えられる。しかし、広島城を無断で修築したことを咎められ、減封され蟄居、信濃で没した。

広島城
広島城復元天守(広島城ホームページ

幕藩体制の確立

幕藩体制の成立

江戸幕府の成立
関ヶ原の戦い地図
関ヶ原の戦い地図 ©世界の歴史まっぷ

1598(慶長3)年に豊臣秀吉が死去すると、家康の地位は浮上した。家康と対立したのが、豊臣政権を支えてきた実務官僚である五奉行の一人石田三成であった。三成は小西行長らとともに五大老の一人毛利輝元を盟主にして、宇喜多秀家島津義弘(1535〜1619)らの西国諸大名を味方につけて兵をあげた(西軍)。
対する東軍は、徳川家康と彼にしたがう福島正則(1561〜1624)・加藤清正(1562〜1611)·黒田長政(1568〜1623)らの諸大名で、三成と通じた会津の上杉景勝との戦いのあと、東西両軍は1600(慶長5)年9月、美濃の関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。
東軍10万4000人、西軍8万5000人の天下分け目の戦いは、小早川秀秋(1582〜1602)の内応により東軍の大勝となった。

幕藩体制

家康の死後、1617(元和3)年に2代将軍秀忠は、大名・公家・寺社に領知(地)の確認文書(領知宛行状りょうちあてがいじょう)を発給し、自ら全国の土地領有者としての地位を明示した。大名とは1万石以上の領地を与えられ、将軍と主従関係を結んだ武士をいうが、軍事力を備えているだけにその統制には苦心した。1619(元和5)年、広島城主(49万8000石)福島正則を武家諸法度の城郭修補の項に違反した理由で改易し、そののち信州川中島(4万5000石)へ転封した。こうして法度を遵守させるとともに、将軍より年功の西国布力外様大名をも処分できる圧倒的な力を示した。

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