シャクシャインの戦い
シャクシャイン像(新ひだか町真歌公園)Wikipedia

シャクシャインの戦い


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シャクシャインの戦い( A.D.1669〜A.D.1671)

和人による不正交易に対する不満などから、シャクシャインを中心に石狩地方を除く全蝦夷地のアイヌがいっせいに蜂起したが、明清交替期の中国大陸の戦乱と結びつけ、女真(清)が蜂起に加担することを危惧した幕府は、津軽藩、松前藩に鎮圧させた。1671年武力的に屈服したアイヌは、以後、松前藩に服従、松前藩和人地や本州(津軽・南部など)に自由往来することが禁止され、松前藩によるアイヌ支配が強まった。

シャクシャインの戦い

幕藩体制の確立

幕藩体制の成立

朝鮮と琉球・蝦夷地

1669(寛文9)年、シャクシャイン(?〜1669)を中心としてアイヌは連合して立ち上がり、松前藩と対立して蜂起した。石狩地方を除く全蝦夷地のアイヌがいっせいに蜂起し、273人の和人を殺害し、商船17隻も襲うことになった。その背景には.それまでの和人による不正交易に対する不満があったのであろう。幕府も、アイヌのいっせい蜂起を深刻に受けとめた。明清交替期の中国大陸の戦乱と結びつけ、女真(清)がシャクシャインの蜂起に加担するのではないかと危惧したのであった。幕府は津軽藩の軍を松前に派遣し、松前藩に協力して鎖圧にあたらせた。また秋田・南部両藩にも、出動態勢が命じられた。

降伏を余儀なくされたアイヌは、1671(党文11)年、最終的に鎮圧された。武力的に屈服させられたアイヌは、以後、全面的に松前藩に服従させられ、松前藩和人地や本州(津軽・南部など)に自由往来することが禁止された。享保~元文期(1716〜40年)ころまでには、多くの商場が和人商人の請負となった(場所請負制度)。アイヌの人々は、もはや自立して交易を行うというのではなく、漁場で和人商人に利用される、単なる労務者の立場に変わっていた。このような立場の変化は、年賀の儀礼に献上品とともにアイヌの首長(乙名おとな)が松前城を訪れるときにもみられた。城中の座敷で藩主直々に面謁していたものが変わって、座敷にはあがれず、庭先に土下座をして年賀の礼をとるようになった。

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