アメリカ独立戦争(
A.D.1775〜A.D.1783)
北アメリカの13植民地がイギリス本国の重商主義政策に対して自治権を求め、独立を獲得した戦争。1775年の武力衝突に始まり、1776年独立宣言、ヨーロッパ諸国、特にフランスの支援を得てイギリス軍を破り、1783年のパリ条約で独立が承認された。
アメリカ独立戦争
北アメリカ13植民地が、イギリス本国の重商主義政策に反抗して、独立を達成した戦争。アメリカ独立革命 American Revolution ともいう。イギリスはアメリカ植民地に対し、次第に重商主義政策を強めていたが、七年戦争(1756~63)によって悪化した財政状態を建直すため、さらに新しくきびしい植民地政策をとった。国王宣言(63)、通貨法(64)、砂糖法(64)、印紙税法(65)、軍隊宿営法(65)、タウンゼンド諸法がこれである。植民地人はこれに反抗し、イギリス商品不買運動、本国議会への請願を繰返したが、1770年3月5日にはボストン虐殺事件、73年12月16日にはボストン茶会事件などが起った。イギリスは植民地懲罰諸法を定め、植民地側は74年大陸会議を結成してこれに対抗し、75年4月19日レキシントンとコンコードで本国軍と植民地民兵が衝突し、独立戦争が始った。同年5月開かれた第2回大陸会議では、独立を主張する愛国派、本国との和解を望むロイヤリスト(王党派)が対立したが、その後戦争の進展やT.ペインの『常識』の刊行もあって愛国派の勢力は増大し、大陸会議は76年7月4日、T.ジェファーソンの起草になる独立宣言を公布した。アメリカ独立軍の戦いは苦しかったが、77年10月17日サラトガで勝利を収めると、フランスはやがて米仏同盟を結び、加えてスペイン、オランダなどもイギリスに敵対行動をとったので、状況は次第に独立軍に有利となった。イギリスは戦場をロイヤリストの多い南部に移して戦ったが、アメリカ、フランスの共同作戦のため、81年10月19日ヨークタウンで司令官C.コーンウォリスが降伏し、戦争は事実上終了した。イギリスとの和平条約は83年9月3日パリで調印され、アメリカの独立、その領土として西はミシシッピ川まで、南は東西フロリダまで、北は五大湖と北緯45度までの地域が決定された。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
戦争データ
年月日:1775年〜1783年 | |
場所:北アメリカ東部(現アメリカ合衆国とカナダ)、大西洋、地中海、カリブ海 | |
結果:パリ条約:アメリカ合衆国の独立(イギリスの敗北) | |
交戦勢力 | |
アメリカ合衆国(1776年7月4日以前は13植民地) バーモント共和国 フランス王国 スペイン帝国 ネーデルラント連邦共和国 オナイダ族 タスカローラ族 ポーランド志願兵 プロイセン王国志願兵 ケベック志願兵 マイソール王国 |
グレートブリテン王国 ハノーファー選帝侯領 ロイヤリスト イロコイ連邦 ドイツ人傭兵隊 ヘッセン=カッセル方伯領 ヴァルデック侯国 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国 アンスバッハ侯領 |
指導者 | |
ジョージ=ワシントン ホレイショ・ゲイツ ジョン・ポール・ジョーンズ ナサニエル・グリーン ベネディクト・アーノルド ベンジャミン・リンカーン ジルベール・ド・ラ・ファイエット ロシャンボー伯 フランソワ・ド・グラス ピエール・アンドレ・ド・シュフラン ガルベス伯 ルイス・コルドバ・イ・コルドバ タデウシュ・コシチュシュコ シュトイベン男爵 ヨハン・ズートマン ハイダル・アリー ティプー・スルターン |
ジョージ3世(イギリス王) ウィリアム・ハウ ヘンリー・クリントン チャールズ・コーンウォリス(捕虜) ジョン・バーゴイン(捕虜) バナスター・タールトン ベネディクト・アーノルド ジョセフ・ブラント ヨハン・ラール |
戦力 | |
アメリカ軍 250,000名 フランス軍 15,000名 スペイン軍 8,000名 総計: 273,000名 |
イギリス軍 12,000名 ロイヤリスト 50,000名 ドイツ人傭兵 40,000名 インディアン 5,000名 総計: 107,000名 |
参考 Wikipedia
欧米における近代社会の成長
アメリカ独立革命
七年戦争後の植民地と本国の対立
本国は植民地を原料供給地・市場にとどめ、本国の産業や貿易を保護しようとする重商主義政策を実地した。1651年の航海法( ピューリタン(清教徒)革命)をはじめ、1699年の毛織物法、1732年の帽子法、1733年の糖蜜法、1750年の製鉄品法などは、本国の貿易・産業、英領西インド諸島の産品などを保護するために、植民地の自由な貿易や製造業に規制を加えたものであった。
しかし、七年戦争終結までは、植民地をフランスやインディアンの攻撃から守るため、植民地自身にある程度の自衛力をつけさせる必要があった。そのため、これらの重商主義的規制を厳格には適用しないことがかえって「有益なる怠慢」とされてきた。
七年戦争終結後、フランス勢力を排除した本国政府は、植民地に対する統制を強化しはじめた。インディアンとのトラブルを避けるため植民地人の行動を抑え、また財政難から戦費・植民統治費の一部を植民地に負担させるということで、課税の強化をはかったのである。1763年に設けられた国王宣言線は、植民地人のアパラチア山脈以西の移住を禁じ、1764年の砂糖法は、外国領から輸入される砂糖の課税を強化した。
こうした本国の政策に植民地人は強い不満をもったが、植民地人の抵抗をいっきょに高めたのが1765年の印紙法であった。これは商取引の証書、司法上の書類や許可証のみならず植民地で発行される新聞・パンフレット・トランプなどに印紙を貼らせて税収の増大をはかろうとするものであった。それは植民地の多くの人々に関係する課税であったため、パトリック・ヘンリー(1736〜1799)が活躍したヴァージニア植民地議会の決議など各地で広範な反対運動をひきおこした。
植民地は本国議会に代表を送っていないので、同意のない課税はイギリス臣民の有する固有の権利と自由に反すると考えた。「代表なくして課税なし」の原則が植民地側の反対の理由であった。印紙法は翌年廃止されたが、1767年本国議会は新しくタウンゼント諸法で、ガラス・鉛・茶などの課税を定めた。これも本国製品の不買運動など広範囲の抵抗を招き、茶税を残し廃止されたが、反対派の運動が続いたマサチューセッツで、1770年「ボストン虐殺事件」がおこった。抵抗運動を抑えようとした本国軍と、集会に集まったボストン市民の衝突で5人の市民が死亡した事件で、この事件は急進派のパンフレットなどで反英運動の宣伝に利用された。
1773年、本国議会は、イギリス東インド会社に限りアメリカへ輸出する茶の税を免除する茶法を定めた。これに対し、東インド会社の茶取引の独占権に反発する動きが高まった。同年12月、インディアンに変装したボストンの急進派市民は、ボストン港の東インド会社の船を襲撃し、積荷の茶を海に捨てた。ボストン茶会事件(ボストン・ティーパーティー)と呼ばれるこの事件に対し、本国政府は翌年一連の抑圧的諸法でこたえた。ボストン港は封鎖され、マサチューセッツの自治は制限され、軍隊が駐屯しその費用が押しつけられ、オハイオ川以北はケベックに編入された。
本国の抑圧に対し、1774年ジョージアをのぞく12の植民地代表がフィラデルフィアに集まり、第1回大陸会議が開かれた。ここでは「宣言と決議」が採択され、植民地人の権利と自由を侵害する本国の政策に抗議し、本国との通商を断絶することとなった。
独立戦争の開始と独立宣言
1775年4月、本国軍と植民地民兵の最初の武力衝突がボストン郊外のレキシントンとコンコードでおこった(レキシントン・コンコードの戦い)。植民地側の武器弾薬庫の接収にむかった本国軍と、ミニットマンと呼ばれる現地住民の民兵の衝突であった。
この直後の5月、第2回大陸会議がフィラデルフィアで開かれ、大陸軍が組織され、ジョージ=ワシントン(1732〜1799)が最高司令官に任命された。
レキシントン・コンコードの戦い
アメリカ独立戦争の発端となったのが1775年4月18日、ボストン郊外のレキシントンとコンコードで、植民地人が redcoats と呼んでいたイギリス正規軍と植民地人のミニットマンの間でおこった武力衝突である。コンコードの農民がひそかに火器を貯えているとの情報をえたイギリスのゲージ将軍が、その軍事品貯蔵庫を破壊するため、700人の部隊を派遣した。レキシントンではこれに対抗しようとした植民地人の一団と小競り合いがあり、コンコードで捜索を済ませて帰るイギリス軍に植民地側のミニットマンがゲリラ的銃撃を浴びせたのである。この事件でどちらが先に発砲したかは明らかではない。しかし、植民地側のニュースはいちはやく、衝突はイギリス側が仕掛けたものとした。イギリス軍の残虐行為とイギリスに反抗した人々の「英雄的な戦い」がことこまかに語り伝えられ、植民地民衆の心を奮い立たせたのである。ニュースは植民地側の連絡網をつうじて流布された。すでに、植民地側のプロパガンダの環を広げるため、各地に「通信連絡委員会」が設立されていた。
最初の段階では、独立を支持する愛国派(パトリオット)は自営農民・中小商工業者・一部の大農場主ら植民地人口の3分の1程度にすぎず、なお本国に忠誠であろうとする忠誠派(ロイヤリスト)と、和解に期待を抱き迷いつつある中立派を合わせると、独立に踏み切れないものが多数を占めていた。しかし、戦争が進むにつれ、和解の希望はうすれ、独立への意識が強まってきた。1776年1月にトマス・ペイン(1737〜1809)が出版したパンフレット『コモン・センス(常識)』は、君主制の弊害を指摘し、共和政の採用と独立を単純明快な論旨で主張し、3ヶ月で12万部売れ、世論を和解から独立へかたむけた。
大陸会議は1776年7月4日、独立宣言を採択した。トマス=ジェファソン(1743〜1826)が起草し、他の代表が検討を加えたものである。独立宣言では、合衆国が独立する理論的根拠を前段で述べている。生命・財産および幸福追求の権利という自然権・自然法、社会契約論にたつ政府の役割、人民主権、革命権などは、ジョン・ロック( 「科学革命」 )の政治理論の影響を強くうけている。中段でジョージ3世(イギリス王)の悪政を20数件の事例を列挙して述べ、結論として植民地が、アメリカ合衆国として独立することを宣言している。
独立宣言は、和解か独立かでまよっていた植民地人の選択を迫ることとなり、対外的には植民地を新国家とすることによって、本国との抗争を内乱から国際戦争に転じさせることになった。
イギリスでコルセット職人の子として生まれ、職業を転々としたのち、フランクリンのすすめでアメリカに渡った。
アメリカ独立宣言(抜粋)
我々は次のことが自明の真理であると信ずる。すべての人は平等につくられ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利を与えられていること。そのなかには生命、自由、そして幸福の追求が含まれていること。これらの権利を確保するために、人類の間に政府がつくられ、その正当な権力は被支配者の同意にもとづかねばならない。もしどんな形の政府であってもこれらの目的を破壊するものになった場合には、その政府を改革しあるいは廃止して人民の安全と幸福をもたらすにもっとも適当と思われる原理にもとづき、そのような形で権力を形作る新しい政府を設けることが人民の権利であること。異常である・・・・・・現在のイギリス王の歴史はたび重なる侮辱と権利侵害の歴史である。すべては、わが諸州の上に絶対専制政治をうちたてることを直接目的としているのである。以上のことを立証するために、公正な世界にむかってあえて事実を提出する。
戦争の経過とパリ条約
ジョージ=ワシントンの率いる大陸軍は、数万のイギリスの正規軍を相手に苦戦を続けた。植民地兵は勇敢ではあったが、正規の軍事訓練をうけていなかった。将校たちの指揮経験も少なく、いくつかの先頭で敗北を続けた。しかし彼らは敗北から学ぶ能力をもっていた。
1777年、植民地軍はサラトガの戦いでイギリス軍に大きな勝利をおさめた。装備、訓練で劣っていた大陸軍に海外からフランスの若き貴族ラ・ファイエット、ドイツの軍人フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン、ポーランドの愛国者コシューシコ(タデウシュ・コシチュシュコ ポーランド分割)などが義勇兵として参加した。シュトイベン男爵は厳しい規律できたえられたプロイセン軍の将校で、アメリカ兵のための軍事教練の教則書をつくり、実戦にも参加した。
フランスとの同盟のため、大陸会議から代表としてフランスに派遣されていたベンジャミン=フランクリン(1706〜1790)は、フランス人の間に非常に人気があった。彼の人気に加え、七年戦争敗北以来イギリスに報復の機会をねらっていたフランス政府は、参戦には慎重であったが、ひそかに金銭的援助や物資補給で植民地の支援を続けていた。サラトガの勝利の報せは、このフランス政府を参戦にふみきらせた。1778年、フランスは合衆国と和親・通称の条約を結び、正式にその独立を承認し、軍事同盟に同意し、イギリスに宣戦を布告した。こうしてフランスの陸海軍が戦争に加わることになった。翌年、フロリダ回復をねらっていたスペインもフランスの同盟国として対英宣戦をおこなった。また、イギリス海軍が大陸への援助を妨害したことから、1780年、ロシアのエカチェリーナ2世の提唱でヨーロッパ諸国の参加する武装中立同盟がつくられ、イギリスは国際的にも孤立した。
1781年、ヨークタウンで大陸軍とフランス陸海軍は、チャールズ・コーンウォリスの率いる7000のイギリス軍を包囲、降伏させた(ヨークタウンの戦い)。戦争は事実上、植民地の勝利というかたちで終結した。本国では強硬派のトーリ党内閣にかわり、穏健派のホイッグ党内閣が成立し、1782年仮講和条約が結ばれた。
1783年、植民地と本国の間にパリ条約(1783)が締結され、アメリカ合衆国は独立を承認されたばかりでなく、13の植民地の面積をうわまわるミシシッピ川以東の広大な土地を割譲された。