ロベスピエール Robespierre(
A.D.1758〜A.D.1794)
フランス革命恐怖政治期(1793~94)のモンターニュ派(山岳党)の指導者。立法議会ではジロンド派の開戦論に反対し、山岳派の指導者となってサンキュロットと同盟、93年6月国民公会からジロンド派を追放しジャコバン派独裁を樹立。公安委員会の一員となって恐怖政治を行なった。テルミドールのクーデタで国民公会に逮捕・処刑された。
ロベスピエール
フランス革命の指導者。恐怖政治期(1793~94)における山岳派の指導者として知られる。弁護士の長男として生れ、1769年パリのルイ大王学院入学の奨学金を与えられた。天才的な頭脳をもつ学生で、80年大学入学を許可され、翌年法学修士号を取得、卒業後、故郷アラスで弁護士になった。たちまち名声を博し、82年アラス司教区の刑事裁判官に任命された。89年アルトア州第三身分の代議員として全国三部会に参加。国民議会が成立すると、急進的なジャコバン・クラブに加入、以後憲法制定国民議会からテルミドール9日まで、終始革命のなかに身をおいた。思想的にはルソーの影響を受けた。立法議会ではジロンド派の開戦論に反対し、山岳派の指導者となってサンキュロットと同盟、93年6月国民公会からジロンド派を追放しジャコバン派独裁を樹立。同年7月公安委員会の一員となって恐怖政治を行なった。「徳なくして恐怖は罪であり、恐怖なくして徳は無力」と説き、「徳の共和国」という平等の小所有者の共和国を理想としながらも、現実は革命独裁を推進。山岳派内で、左派のJ.エベールほか19名を処刑し、また右派のG.ダントンをギロチンに送ってエベール派、ダントン派を排除、この頃よりサンキュロットの支持も失い、94年7月27日(テルミドール9日)、国民公会によって逮捕された。翌日同志とともに革命広場(現コンコルド広場)で処刑された。
参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2018
恐怖政治を象徴する清く正しい人
弁護士出身のマクシミリアン・ロベスピエールは、政治腐敗を憎むストイックな姿勢から「清廉潔白の人」と渾名された。生涯、女性を知らなかったともいわれている。人民主権という考えを打ち立てたジャン=ジャック・ルソーに心酔し、小市民や労働者の側に立ち、亡命貴族や反革命分子の土地を没収して無償で農民に分け与えた。また革命裁判所を設置し、反対派は反革命分子として次々とギロチンに送り恐怖政治を推進。「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」という言葉を残している。「ルソーの血塗られた手」とも渾名されたが、最後は自身もギロチンにかけられた。
欧米における近代社会の成長
フランス革命とナポレオン
立憲議会の成立と戦争の開始
1791年10月、新憲法による選挙で一院制の立法議会が成立した。立法議会では右翼に立憲君主派のフイヤン派が、左翼に共和政を主張するジャコバン派が陣どっていた。多数の中間派は情勢に左右された。フイヤン=クラブを背景とするフイヤン派はラ=ファイエットやバルナーヴ(1761〜93)らが指導していた。ジャコバン修道院に本拠をおくジャコバン派には小市民を支持基盤とする左派と、中産市民層を代表する穏和派がいた。マラー(1743〜93)・ダントン(1759〜94)・ロベスピエール(1758〜94)らに指導される左派は議会の最左翼の高い所の議席を占めていたので、モンターニュ派(山岳党)と呼ぱれた。穏和派はジロンド県出身議員が多く、のちジロンド派としてジャコバン派から分離し、両者は対立するようになった。
第一共和制の成立と内外の危機
1792年8月末から9月初めに普通選挙により議員が選ばれ、国民公会が成立した。国民公会は王政廃止と共和政(第一共和政)の樹立を宣言した。立憲君主派は姿を消し、共和派のみとなった国民公会では議場の右のジロンド派と議場の左のモンターニュ派(山岳党)が敵対した。ジャコバン=クラブはモンターニュ派が支配していた。
モンターニュ派の提案した国王の死刑は可決され、ジロンドが提案した死刑執行延期は否決された。1793年1月、革命広場(のちのコンコルド広場)でギロチンによるルイ16世の処刑がおこなわれた。
革命軍の攻勢とルイ16世(フランス王)の処刑は、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の革命への敵意と警戒心を強めた。イギリスのピット首相(小ピット Pitt, 1759〜1806)の呼びかけで、1793年第1回対仏大同盟が結成された。イギリス・オーストリア・プロイセン・スペイン・オランダなどが参加した。国内ではヴァンデ県で王党派が指導する農民の反乱がおこり、インフレと買い占めと食糧難から民衆の不満が高まった。国民公会のモンターニュ派は、反革命を抑えるため革命防衛のための改革を進めた。革命裁判所・監視委員会・国民公会の委員で構成する公安委員会などが設置された。公安委員会は行政の活動の監視・促進をめざすものであったが、しだいにその権限を強めた。
ジロンド派はこのような措置に反対したが、モンターニュ派は1793年6月パリのサンキュロットの武装兵力に国民公会を包囲させ、ジロンド派議員を追放し、独裁権を握った。ジロンド派の議員や大臣の多くは逮捕され、処刑された。
モンターニュ派(山岳党)の独裁と恐怖政治
独裁権を握ったモンターニュ派は、亡命者財産の売却、共有地分割法などで土地を農民に分配し、1793年憲法を制定し、封建的諸特権の無償廃止を決定した。1789年の封建的諸特権廃止では、封建地代は有償で廃止することになっていた。1793年憲法はジャコバン憲法とも呼ばれ、革命期の憲法のなかでもっとも民主的な内容をもつもので、人民投票で採択が決められた。しかし、革命権まで保障したこの憲法は、平和が到来するまで実施が延期されることになり、結局実施されずに終わった。
政治的・経済的危機は続いていた。地方都市ではジロンド派の蜂起がおこなわれ、対仏大同盟の軍隊はフランスに侵入し、国民総徴用令がだされた。インフレや小麦の不足も深刻であった。
1793年7月13日、モンターニュ派の有力指導者マラーが暗殺された。犯人の若い女性シャルロット=コルデーはジロンド派の同調者であった。
危機に対応するための非常措置が強化され、恐怖政治が組織された。公安委員会には、ロベスピエールが入り、権限が強化され、強力な独裁政治の執行機関となった。反革命容疑者の逮捕、裁判の促進がはかられ、革命委員会はあらかじめ容疑者のリストを作成した。
テルミドールのクーデタと総裁政府
革命政府が国外・国内で勝利をえた1794年の段階で、モンターニュ派の指導者間の対立と不信が表面化した。パリのサンキュロットの間に支持者が多かったエベール Hébert (1757〜1794)派は、民衆の過激な行動を扇動してきた。また、非キリスト教運動を進め、銀行家の逮捕など過激な主張をくりかえしてきたが、国民公会に対する蜂起計画を告発され、逮捕・処刑された。一方、ダントン派は恐怖政治の緩和を要求したが、ダントンの汚職が摘発され、処刑された。公安委員会を指導するロベスピエールが独裁権を握った。恐怖政治は一層強化された。革命裁判は迅速化がはかられ、1794年6月プレリアール法(草月)により、弁護・証人・予審を省いておこなうことができるようになり、処刑者の数は激増した。
しかし革命戦争の勝利は恐怖政治の正当化を困難にしていた。ブルジョワジーは経済活動の自由を要求し、労働者は賃金の統制に不満をもち、他方で恐怖政治は腐敗と結びついた。土地をえた農民は革命のそれ以上の進展を望まず、保守化する傾向をみせた。
公安委員会でもロベスピエールの独裁への反感が生まれ、国民公会ではロベスピエールにより告発されることを恐れる腐敗分子が反ロベスピエール派を形成した。
- Cidevant garde Meubles
- Entrée du ci-devant Jardin des Thuileries a la place de la Révolution
- Le faubourg St. Germain
- Sanson l’exécuteur de Paris
- Le traitre Lebas qui s’est brullé la Cervelle
- Le traitre Couthon déjà exécuté
- La tête du dit scélérat
- Le traitre Robespierre le jeune
- Hanriot ex commandant de la Garde Nationale parisienne
- Le tyran Robespierre l’ainé
- Dumas ex-président du Tribunal Révolutionnaire
- Le scelerat Saint-Just
- Lescot Fleuriot ex Maire de Paris
- Les 14 autres complices assis sur 2 charrettes
1794年7月27日、革命暦でテルミドール Thermidor (熱月)9日、国民公会はロベスピエールを告発、ロベスピエール派の逮捕を決定した。ロベスピエールらはいったん支持者により釈放されたが、国民公会も部隊を集め、ロベスピエール派を襲撃して逮捕し、裁判をへずにただちに処刑した(テルミドール9日のクーデタ)。
このテルミドールのクーデタで恐怖政治は終止符が打たれ、国民公会では穏和派が主導権を握った。公安委員会の権限は縮小され、プレリアール法も廃止された。革命裁判は改組され、ジャコバン=クラブも閉鎖された。