サンキュロット sans-culotte
フランス革命期にもっとも急進的な行動を示した下層市民層の呼名。語義は貴族のはくようなキュロットをはかないものの意。都市の小手工業者、職人・労働者など下層市民をさす。1792年8月10日事件では、サンキュロットを主体とする革命的コミューンが成立し、合法性をこえた革命的行動で国民公会に圧力を加えた。モンターニュ派(山岳党)の勢力は、コミューンの支持を基盤とした。
サンキュロット
欧米における近代社会の成長
フランス革命とナポレオン
旧制度のフランス
第三身分は決して均質な階層ではなかった。ブルジョワジーと呼ばれる富裕市民のなかでも、銀行家・大商人・企業家・地主など上層市民は特権身分と利害をともにしていた。弁護士・公証人・文筆家・医師・教授など自由職業者、新興商工業者は旧制度の矛盾にもっとも批判的であった。都市の小手工業者、職人・労働者など下層市民は、サンキュロット(貴族のはくようなキュロットをはかないものの意)と呼ばれ、革命期にもっとも急進的な行動を示した。
立憲議会の成立と戦争の開始
1791年7月25日、プロイセン軍司令官ブラウンシュバイク公はコブレンツで宣言を発し、フランス国王に危害が加えられればパリ市を破壊する警告した。この宣言は王政の瓦解を早める結果となった。ジャコバン=クラブとパリの各地区の市民は国王の廃位を要求し、8月10日パリ民衆と義勇兵は、テュイルリー宮殿を攻撃し、宮殿を警護していたスイス衛兵は惨殺された。民衆の圧力に屈し、議会は王権を停止し、普通選挙による憲法制定議会すなわち国民公会の招集を布告した。ルイ16世はタンプル宮に幽閉された。
この8月の蜂起のとき、民衆の活動家によりコミューンが組織された。パリの実権はコミューンが握った。
9月2日から6日にかけ、パリの民衆は市内の監獄に収容されている反革命容疑者とみなされた囚人を人民裁判により虐殺した。まったく政治に関係のない囚人を含めて、犠牲者は千数百人にのぼった。義勇軍が前線にむかったあと、背後の裏切り者が牢獄を破り、市民の虐殺をおこなうという噂に対しておこされた民衆行動であった。「9月虐殺」はコミューンが指導したものであるが、この行為の正当化と責任をめぐって、この後さまざまな論議がおこなわれた。
第一共和制の成立と内外の危機
革命軍の攻勢とルイ16世(フランス王)の処刑は、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の革命への敵意と警戒心を強めた。イギリスのピット首相(小ピット 1759〜1806)の呼びかけで、1793年第1回対仏大同盟が結成された。イギリス・オーストリア・プロイセン・スペイン・オランダなどが参加した。国内ではヴァンデ県で王党派が指導する農民の反乱がおこり、インフレと買い占めと食糧難から民衆の不満が高まった。国民公会のモンターニュ派は、反革命を抑えるため革命防衛のための改革を進めた。革命裁判所・監視委員会・国民公会の委員で構成する公安委員会などが設置された。公安委員会は行政の活動の監視・促進をめざすものであったが、しだいにその権限を強めた。
ジロンド派はこのような措置に反対したが、モンターニュ派は1793年6月パリのサンキュロットの武装兵力に国民公会を包囲させ、ジロンド派議員を追放し、独裁権を握った。ジロンド派の議員や大臣の多くは逮捕され、処刑された。
モンターニュ派(山岳党)の独裁と恐怖政治
革命政府が国外・国内で勝利をえた1794年の段階で、モンターニュ派の指導者間の対立と不信が表面化した。パリのサンキュロットの間に支持者が多かったエベール(1757〜1794)派は、民衆の過激な行動を扇動してきた。また、非キリスト教運動を進め、銀行家の逮捕など過激な主張をくりかえしてきたが、国民公会に対する蜂起計画を告発され、逮捕・処刑された。
1794年7月27日、革命暦でテルミドール Thermidor (熱月)9日、国民公会はロベスピエールを告発、ロベスピエール派の逮捕を決定した。ロベスピエールらはいったん支持者により釈放されたが、国民公会も部隊を集め、ロベスピエール派を襲撃して逮捕し、裁判をへずにただちに処刑した(テルミドールのクーデタ)。
このテルミドールのクーデタで恐怖政治は終止符が打たれ、国民公会では穏和派が主導権を握った。公安委員会の権限は縮小され、プレリアール法も廃止された。革命裁判は改組され、ジャコバン=クラブも閉鎖された。しかし、革命政府は安定性、権力の集中性、反革命勢力の鎮圧力を失った。統制が撤廃され経済活動の自由が認められたが、買い占めや投機により物価は高騰した。これに反対する民衆(サンキュロット)運動は抑えられた。反革命派や王党派が勢いづき、恐怖政治の報復として、白色テロが横行した。