イギリスの諸改革 チャーティスト
チャーティスト暴動(Cornelius Brown作/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

チャーティスト運動


チャーティスト運動 Chartist( A.D.1838〜A.D.1848)
イギリスのオコナーやラヴェットを指導者に、第1回選挙法改正で選挙権が与えられなかった労働者が、6か条(①成人男性普通選挙制、②無記名投票、③1年任期の議会、④議員の財産資格の廃止、⑤歳費の支給、⑥10年ごとの国勢調査によって調整される選挙区)の「人民憲章」を掲げておこなった政治闘争。

チャーティスト運動

1838~58年に労働者階級を主体として展開したイギリスの民衆運動。成人男子の普通選挙権の確立、議員の財産資格規定の撤廃など6項目の議会改革の要求を明示した人民憲章を掲げて運動を推し進めたことからチャーティスト運動と呼ばれる。この運動の目的は、1832年の第1次選挙法改正法で無視され、新救貧法に反発していた労働者の政治的権利を確立し、その社会的・経済的地位を向上させることにあった。37年ロンドン労働者協会のW.ラベットらが6項目の要求を決定、38年5月それを人民憲章として発表。北部工業地帯の労働者を代表するF.オコナーらの動きと結合、39年2月総会を開催。5月人民憲章立法化を求める請願を提出、要求が拒否されたためゼネストを企てたが失敗し、弾圧を受けた。運動方針をめぐって内部に理性派と暴力派の対立が生じ、後者に属するオコンナーを指導者として、42年300万人以上の署名請願が行われたが、6項目要求は再び拒否された。その後48年に運動は最後の高揚をみせ、議会に対して3度目の請願が出されたが拒否され、大衆示威行動も失敗に終った。以後10年E.ジョーンズらのもとで運動は思想的に展開をみせたが、その政治運動としての重要性はすでに失われ、政府の弾圧と内部分裂のため衰退した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

イギリスの諸改革

政治的関心を高めていた産業資本家や労働者の不満は年々高まり、フランス七月革命の影響や経済不況に対する政府の無策も重なって、1830年の選挙で成立したホイッグ党のグレー内閣が法案成立に努力を重ね、1832年6月第1回選挙法改正 electoral reform が実現した。しかし、この改正では腐敗選挙区が廃止され、産業資本家は選挙権を獲得したが、同様に運動を担った労働者には選挙権は与えられなかったので、30年代後半になってオコナー O’Connor (1794〜1855)らを指導者とするチャーティスト運動 Chartist が展開された。また政党の再編が進み、トーリ党は地主や保守的資本家を支持基盤とする保守党へ、ホイッグ党は商工業ブルジョワを代表する自由党へと再編された。

1848年の革命

イギリスではフランス二月革命と同様、選挙法改正の運動が高揚した。1832年の第1回選挙法改正では腐敗選挙区が廃止されたが、この改正運動に協力した労働者には選挙権が与えられなかった。そのため1830年代後半からオコナーラヴェット Lovett (1800〜77)を指導者とするチャーティスト運動 Chartist がおこり、6カ条の要求からなる「人民憲章 People’s Charter 」を掲げ、政治闘争を開始した。

1848年革命地図
1848年革命地図 ©世界の歴史まっぷ
ラヴェットはオコナーが暴力派に属するのに対して穏健派に属し、1840年代以降むしろ教育運動に専念した。
人民憲章:「6カ条の要求」とは①成人男性普通選挙制、②無記名投票、③1年任期の議会、④議員の財産資格の廃止、⑤歳費の支給、⑥10年ごとの国勢調査によって調整される選挙区、の6つである。

二月革命の影響をうけて1848年4月ロンドンのケニントン広場で数万人にも達する大集会が開かれたが、政府は隣国のフランスの二月革命が同じ選挙法改正運動をきっかけとしたことから警戒心を強め、集会前夜戒厳令を布告し、全国の警察と軍隊を動員してこの運動の封じこめをはかった。デモ隊の行動は規制され、570万人の署名と国民請願書のみが下院に届けられた。しかし請願は拒否され、内部対立や運動の急進化による国民の離反、指導者の逮捕・投獄によって、チャーティスト運動はしだいに停滞を余儀なくされた。イギリスのこれ以降の選挙法改正は資本家や地主の指導のもとで進められていく。

チャーティスト
チャーティストの集会(ロイヤル・コレクション蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ケニントン広場での集会。これを最後にチャーティスト運動は停滞した。写真の中にはわずかではあるが女性の姿が見える。

欧米における近代社会の成長

産業革命

機械化と工場制度

水力紡績機は、のちに蒸気機関に接続され、能率を飛躍的に高めた。さらに1779年に発明されたミュール紡績機をもって、紡績部門の技術革新は一段落した。これに対応して、織布部門でも1785年にエドモンド・カートライト(1743〜1823)が力織機りきしょっきを発明したが、この部門では機械化はそれほど急速には進まなかったので、なお多くの手織工が必要とされた。1830・1840年代に、チャーティスト運動などで多数の手織工が活躍するのはこのためである。

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