プロイセン=フランス戦争 (普仏戦争
A.D.1870〜A.D.1871)
ドイツ統一過程の最終局面で勃発した、プロイセン主導のドイツ諸邦とフランスとの戦争。1870年7月ナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告し、1871年5月フランクフルト条約の調印で終結し、この条約でフランスは、アルザス・ロレーヌの大部分をドイツへ割譲、50億フランの賠償金の支払いが決められた。
プロイセン=フランス戦争
1870~71年プロシアとフランスの間で行なわれた戦争。プロシア=フランス戦争、独仏戦争とも呼ばれる。1870年7月19日フランスがプロシアに宣戦布告し、1871年5月10日フランクフルト条約の調印で終結した。ドイツ統一を目指すオットー・ビスマルクは、プロシア=オーストリア戦争後、北ドイツ連邦に加わっていない南ドイツ4国の合併を望んだが、ナポレオン3世はマイン川以南の諸国を集めてマイン同盟を結び、プロシアに対抗した。1868年イサベル2世(スペイン女王)が廃位を余儀なくされて以来空位となっていたスペイン国王に、プロシア王家の遠縁にあたるホーエンツォレルン家のレオポルトが迎えられようとしたとき、ナポレオン3世がこれに反対、ビスマルクはこの機会をとらえ、有名なエムス電報事件など巧みな外交手段によってフランス側からの宣戦布告を誘導した。戦争が始まると軍備にまさるプロシアは連戦連勝の戦果を収め、1870年9月2日ナポレオン3世はスダンで降伏。ナポレオン3世は廃位となり、パリでは共和政体の国防政府が樹立した。新政府はフランス領の譲渡を拒否する決意を示し、戦争を続行したが、1871年1月28日ついにパリを開城、2月ベルサイユで仮講和条約が結ばれ、5月正式にフランクフルト講和条約が締結された。フランスはドイツに賠償金50億フランを支払い、アルザス=ロレーヌの大部分を割譲。この結果、ドイツ統一は完成をみた。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
ビスマルク外交
ドイツ統一過程の最終局面で勃発した、プロイセン主導のドイツ諸邦とフランスとの戦争。1870年7月、ナポレオン3世からの宣戦布告で始まったが、圧倒的な世論を背景に南ドイツ諸邦もプロイセンと同盟して戦った。9月にはナポレオン3世がスダンで捕らえられるなど、ドイツ側が勝利を続けるなか、71年1月にドイツ統一が宣言された。
欧米における近代国民国家の発展
ヨーロッパの再編
フランス第二帝政と第三共和政
外交面ではきわめて活発な対外侵略をおこなった。まず1853年クリミア戦争に参加し、これに勝利して皇帝の威信を高めた。さらに56年から宣教師殺害事件をきっかけにイギリスと共同して清朝を攻撃したアロー戦争をおこし、越南国を58年攻撃して(インドシナ出兵)、62年サイゴン条約を結び、コーチシナ東部を確保してさらに北上した。59年カヴールとの密約にもとづいてイタリア統一戦争に介入し、途中でオーストリアと単独で講和するなど自国の利害を優先する外交方針をとった。61年からはメキシコ遠征をおこなったが、現地の反発や南北戦争を集結させたアメリカの抗議によって、干渉を中止せざるをえなくなり、皇帝の権威は失墜した。このため、スペイン王位継承問題でプロイセンと対決したときは、強硬姿勢をとらざるをえなかったためプロイセン=フランス戦争に突入し、スダン要塞で捕虜となって第二帝政は崩壊した。
パリではただちにプロイセンとの戦闘継続をめざして、トロシュ Trochu (1815〜96)を首班とする国民防衛政府(国防政府)が結成され、第三共和政が成立した。パリはプロイセン軍に包囲されたが、内相ガンベッタ Gambetta (1838〜82)は気球にのって脱出し、地方において国民軍を組織してプロイセン軍に抵抗した。しかしティエール Thiers (1797〜1877)らの穏健派は、ボルドーにおける国民議会を背景にプロイセンとの妥協をはかり、71年1月ドイツ軍に降伏し、2月ヴェルサイユにおいて仮の講和条約を結んだ。
これに強く反発したのがパリ市民であった。彼らは、名もない市民が参加した世界史上最初の労働者や市民からなる自治政府であるコミューン Commune を3月結成した。コミューン組織は一時期フランスの各都市で生まれたが、連絡の不徹底で短期間に消滅した。パリ=コミューンはドイツ軍の支援をうけたティエールらの政府軍に善戦したが、しだいに追い詰められ、ペール=ラシェーズ墓地での抵抗と殺戮を最後に5月崩壊した。そしてティエールが9月大統領に就任し、75年第三共和国憲法が制定されて、第三共和政が確立した。