ガリバルディ Garibaldi( A.D.1807〜A.D.1882)
イタリアの共和主義者・革命家。イタリア統一運動の指導者。「青年イタリア」に属し、南米ブラジルの独立運動などに参加。1860年、赤シャツ隊(千人隊)を率いてイタリア半島南部を占領。占領地をサルデーニャ王に献上し、1861年ヴェネツィア・教皇領をのぞくイタリア王国の成立につながる。国民的英雄としてたたえられる。
イタリアの共和主義者・革命家。「青年イタリア」に加入し1834年にジェノヴァで蜂起するが失敗して南米に亡命した。1848年革命時に帰国し、翌年ローマ共和国の防衛戦に加わるが鎮圧され、再び南米に亡命した。帰国して59年のイタリア統一戦争に参加したが、フランスとの密約に失望してサルデーニャ軍から離反し、60年に千人隊を率いてシチリア・南イタリアを解放した。しかし、カヴールが教皇領と両シチリア王国領で併合のための住民投票の手続きを済ませていたため、ガリバルディは占領地をサルデーニャ国王に「献上」し、これがイタリア統一につながった。
イタリアの愛国者、ゲリラ戦指導者。青年時代にG.マッツィーニの指導する青年イタリアに加盟して、国家統一運動を推進。1834年ジェノバ港で民衆革命を起そうとしたが、発覚したため亡命し、欠席裁判で死刑の宣告を受けた。36~48年南アメリカで亡命生活をおくり、そこでゲリラ戦を身につけた。1848年革命の際イタリアに戻り、49年のローマ共和国防衛戦を指揮して名をあげ、ローマ陥落後は、イタリア各地を転戦し、再びアメリカ合衆国に亡命した。54年帰国を許され、60年 C.カブールの政策に反対して義勇軍(赤シャツ隊)を組織し、シチリアと南イタリアに渡り、独裁政権を樹立。しかしサルジニア王国軍が進攻してきたため、シチリアと南イタリアをヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上して、みずからはカプレラ島に隠遁。その後、62、67年と数度にわたって兵を起し、ベネチアとローマの奪回を試み、また70年の普仏戦争に際しても、義勇軍を率いてフランス軍に参加、その名をあげ、フランス国民議会の一員に選出された。74年イタリア議会議員となり、その2年後公職生活から引退した。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
ゲリラ戦のリーダーは救世主あつかい
長髪と頬ひげ、痩身のジュゼッペ・ガリバルディに、人々はキリストのイメージを重ねたという。民衆はこのゲリラ戦指導者に祝福を求めた。反乱突発に乗じ両シチリア王国占領に向かう際には1000人もの義勇兵が彼のもとに集まった。20倍以上もの兵力をもつ王国軍との戦闘を控え、福音のように彼はシチリアの農民に告げた。「大土地所有が解体されれば、農民の土地は増えるであろう」多くの農民が義勇軍に加わりガリバルディは奇跡の勝利を収める。2年後、彼は足に被弾する。取り出された弾丸からは大量の模造品がつくられ、聖遺物のように取引された。
欧米における近代国民国家の発展
ヨーロッパの再編
イタリアの統一
イタリア南部ではカヴールの支援をうけた青年イタリアに属するガリバルディ Garibaldi (1807〜82)が赤シャツ隊(千人隊)を率いてシチリアに上陸し、さらに進撃してイタリア半島南部を占領し、ローマをうかがう情勢となった。この動きに危機を察し、共和主義の浸透に警戒心を持つカヴールはさまざまな干渉をおこなってその進路を妨害した。急遽南下を急いだヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の軍隊はモンテクローチェでガリバルディと会見して占領地をサルデーニャ王に献上させた。こうしてトリノを首都とし、ヴェネツィア・教皇領をのぞくイタリア王国が1861年3月成立した。その後ヴェネツィアは1866年のプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)に参戦することで、教皇領は70年のプロイセン=フランス戦争の際に王国に編入された。ローマ教皇はこれに反発して「ヴァチカンの囚人」と称して対立を続けた。その他、トリエステ・南チロル(トレンティーノ)・イストリア・ダルマティアなど「未回収のイタリア」 Italia irredenta と呼ばれるイタリア人居住地域の回復をめざす領土問題が、20世紀に入っても継続した。
同時代の人物
横井小楠 (1809〜1869)
熊本藩士で福井藩政治顧問。「維新の十傑」のひとり。熊本で開いた私塾は、多くの門弟を輩出。彼のもとには坂本龍馬や井上毅も訪れた。明治新政府にも出仕。