ポーランドの反乱(1863) (一月蜂起
A.D.1863〜A.D.1864)
ロシアの「上からの改革」に乗じて、ポーランド立憲王国の民族主義者がおこした蜂起。1863年1月ワルシャワに蜂起が勃発し、臨時国民政府が宣され、たちまちポーランド全土、リトアニア、白ロシア、ウクライナの一部に波及した。ロシア軍の徹底的弾圧とポーランドへの農奴解放令発布により終息し、以後アレクサンドル2世の反動的政治姿勢をとるにいたった。
ポーランドの反乱(1863)
ロシアの「上からの改革」に乗じて、ポーランド民族主義者がおこした蜂起。蜂起は、ロシア軍の徹底的弾圧とポーランドへの農奴解放令発布により終息した。
ロシアの支配からの解放を求めてポーランドの士族階級(シュラフタ)が起した最後かつ最大の反乱(1863~64)。クリミア戦争後のロシア帝国の政治情勢の流動化を背景として、1862年5月ロシア領ポーランドに急進的な士族階級出身の知識人(赤党」)を中心とした蜂起のための地下組織「国民中央委員会」が結成された。ポーランド立憲王国の民政長官 A.ウィエロポルスキは臨時徴兵令を発してこの動きを封じようとしたが失敗、63年1月22日ワルシャワに蜂起が勃発し、臨時国民政府が宣された。反乱はたちまちポーランド立憲王国全土、リトアニア(リトワ)、白ロシア、ウクライナの一部に波及し、同年夏に最高潮に達した。しかし蜂起は都市下層民、一部農民を巻込んだものの、大多数の農民は運動の圏外にとどまった。1月の布告は農民の耕地所有権を認め、蜂起に参加する貧農に土地を約束したが、63年4月臨時政府の指導権を握った穏健派(白党)が布告の実施を遅らせたため効果を発揮せず、10月に R.トラウグートが独裁官となり、布告の完全実施を約束したときには、運動はすでに退潮期にあり、64年3月ロシア皇帝がより有利な条件の農民解放令を布告したため、まったく意味を失った。こうして蜂起は革命というよりも戦争の性格を帯びることになったが、軍事的には装備の劣るゲリラ部隊の散発的な行動以上のものを展開することができなかった。外交的にはイギリス、フランスの介入を期待して画策したが、ロシア側の断固たる拒否にあい、見通しを失った。63年後半に T.ベルク、 M.ムラビヨフ麾下の30万のロシア正規軍が投入され、警察の追及がきびしくなるに及び、蜂起運動は下火となり、64年4月事実上消滅した。一月蜂起の経験は、国内では一揆主義から有機的労働へと独立運動の転換を促し、国外では第1インターナショナルのような国際連帯運動にきっかけを与え、また日本の攘夷運動(尊王攘夷)の方針転換にも少なからず影響を及ぼした。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
欧米における近代国民国家の発展
ヨーロッパの再編
ロシアの改革
皇帝自身は、1863年におこったポーランドにおける反ロシア独立運動(ポーランドの反乱(1863))に手を焼いていたこともあって、その後反動的政治姿勢をとるにいたった。