カール=マルクス Karl Marx( A.D.1818〜A.D.1883)
ドイツの社会主義者。イギリスの人道主義的立場の社会主義やフランスの協同組合的または無政府主義的立場とはことなる社会主義理論を展開。当時の社会主義と一線を画すために共産主義と称し、ヘーゲルの弁証法を継承しつつ、唯物史観を大成し、厳密な資本主義経済の分析による社会主義社会への必然的移行を主張。『資本論』『共産党宣言』。
カール=マルクス
ドイツの社会主義者。1848年革命後、イギリスに亡命。資本主義社会の分析から、その弊害により社会主義への移行が必然である、との理論を提唱した。その後の社会主義の思想と運動にもっとも大きな影響をおよぼした。
マルクス主義
カール=マルクスとエンゲルスによって提唱された思想と理論、およびその後継者たちによる解釈と発展の諸系列をいう。
資本主義を批判し科学的社会主義を創始
29歳で『共産党宣言』を起草、刊行し危険視されたカール=マルクスは、亡命と貧困をしいられる。ボンで大学教授になる夢は破れ、ケルンを出てパリを追われ、ブリュッセルで捕まりパリに戻りロンドンに逃れ、毎日10時から18時まで大英図書館で『資本論』を執筆。そんな彼を支えたのが親友エンゲルスと4つ年上の妻イェニーだった。素顔のマルクスは愛妻家で、エンゲルスと同じく陽気な酒好きだった。ところが貧しい暮らしのなか、イェニーは少しずつ太陽を崩してゆく。医師の勧めでマルクスは、大英図書館と『資本論』を休み海辺に転地、彼女の看護にあたる。だが彼自身も気管支炎と胸膜炎を併発。結局、妻を看取ることも葬儀に参列することも許されなかった。深い嘆きに沈むマルクスを見たエンゲルスは「マルクスも事実上、死んだ」と語っている。15ヶ月後、マルクスは肘掛け椅子に座ったまま本当の死を迎えた。エンゲルスが席を立った、ほんの2分弱の間のことだった。
社会主義
産業革命の思想
たしかに産業革命は富を増やした。だが労働者の取り分はなく暮らしは悲惨だった。そこで生まれたのが、平等で公平な社会を目指す社会主義である。イギリスでは労働者の待遇改善が始まり、フランスのルイ・ブランは生産の国家統制を、プルードンは無政府主義を唱える。そんな折マルクスが、「夢のようなビジョンを描く空想的社会主義はやめて、実現のためのプロセスを科学的に考えろ」と労働者階級の政権獲得と国際的団結を訴えた。
欧米における近代国民国家の発展
各国の工業化の進展は労働運動を発生させ、生産手段の社会手段の社会化をめざす社会主義思想が誕生した。イギリスやフランスでは、人道主義的な立場や理想的な産業社会、協同組合などをとおした生活・労働条件の改善の試みがなされた。ドイツではマルクスが資本主義経済の分析をとおして、「科学的」と称する社会主義を提唱した。
ウィーン体制
社会主義思想の成立
社会主義思想の成立表
空想的社会主義 | 人道的立場から改革を求める。 | ||
英 | ロバート=オーウェン | スコットランドのニューラナーク工場経営 1833年工場法に影響を与える |
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仏 | サン=シモン | アメリカ独立革命に参加 合理的産業社会を追求 |
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仏 | フーリエ | 協同組合的理想社会を追求 | |
仏 | ルイ=ブラン | 第二共和政の臨時政府で活躍 国立作業場やリュクサンブール委員会設置 |
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無政府主義 (アナーキズム) | 国家・政府の権力を否定。個人の完全な自由をめざす。議会主義否定。労働者の直接行動を重視。 | ||
仏 | ブルードン | 労働に基づかない私有財産を否定 社会問題解決を相互扶助に求める |
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露 | バクーニン | フランスの二月革命に参加 サンディカリズムに影響 |
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露 | クロポトキン | ||
科学的社会主義 (共産主義) | 唯物史観に基づき、資本主義社会を科学的に分析。階級闘争による社会の発展を主張 | ||
独 | マルクス | 唯物史観と唯物弁証法大成 エンゲルスとともに『共産党宣言』を発表 |
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独 | エンゲルス |
労働運動とともに、19世紀になると生産手段の社会化をめざす社会主義思想が生まれた。イギリスのロバート=オーウェン(1771〜1858)は丁稚奉公から始め、織物業者として成功し財を成した。人道主義の立場でスコットランドのニューラナークに工場をたて、10時間労働や清潔なアパートの建設、世界最初の幼稚園の運営などをとおして、利潤追求ではなく、環境の改善による人間性の増進をはかった。フランスでは労働者による理想的産業社会の建設をめざしたサン=シモン(1760〜1825)、生産と消費の協同組合的理想社会の実現をめざしたフーリエ(1772〜1837)らが活動する。
一方で、少数の革命家が指導し暴力による権力奪取をめざしたブランキ(1805〜81)、国家権力の否定によって自由な社会の実現をめざすプルードン(1809〜65)らの無政府主義運動がおこった。ルイ=ブラン(1811〜82)は二月革命の際には臨時政府に参加し、リュクサンブール委員会(労働委員会)の委員長として生産の国家統制をはかるために国立作業場を設立したが、失敗に終わった。
ドイツではカール=マルクス(1818〜83)がでて、イギリスの人道主義的立場の社会主義やフランスの協同組合的または無政府主義的立場とはことなる、社会主義理論を展開した。当時の社会主義と一線を画すために共産主義と称し、ヘーゲルの弁証法を継承しつつ、唯物史観を大成し、厳密な資本主義経済の分析による社会主義社会への必然的移行を主張した。『資本論』などで資本主義社会における搾取の根源を剰余価値に求め、資本主義生産の仕組みを解明し、社会主義を科学としての水準まで高めた(科学的社会主義)。マルクス主義の要旨は、終生の友人であり協力者であったエンゲルス(1820〜95)との共同による『共産党宣言』(1848年1月発表)に集約されている。
マルクスの妻・イェンニー
マルクスの妻は、姉の友人で、彼より4歳年上のイェンニーという女性であった。貴族の出身で、トリールの街で「第1の美人」と呼ばれていた。結婚後、ロンドンに亡命したマルクスは極端な貧乏生活を送った。「1週間前から質屋に入れてある上着がないために外出もしないし、掛け買いがきかないためにもやは肉も食えない」(1852年2月)とマルクスがエンゲルスに手紙を送っており、家賃がたまっては借家から追い出され、2間に一家5人が住み、子どもは大きくなりかけては死に、また生まれては死んだ。オムツを買う金もなく棺おけを買う金もなかった。イェンニーはこの極貧の生活によく耐え、マルクスの研究生活を献身的に支えた。
ドイツ帝国の成立
ドイツの社会主義・労働者勢力の動向をみると、ラサール(1825〜64)が組織した全ドイツ労働者協会(1863年結成)と、ベーベル(1840〜1913)やリープクネヒト(1871〜1919)らが率いるアイゼナッハ派(社会民主労働者党 1869年結成)が、75年合同してドイツ社会主義労働者党を結成し、ゴータ綱領(マルクスが痛烈に批判した綱領)を採択した。こうした動きに対してビスマルクは皇帝狙撃事件をきっかけに78年社会主義者鎮圧法を制定して弾圧したが、社会主義労働者党は党勢を維持・拡大し、90年の選挙では最高得票数を獲得した。ビスマルクが引退し、さらに社会主義者鎮圧法が失効したのち、ハレ大会において、社会民主党と改称し、翌年エルフルト綱領を採択してマルクス主義路線を明確にした。
同時代の人物
伊藤博文 (1841〜1909)
初代総理大臣。長州五傑の一人として1863(文久3)年ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジに留学。校舎はマルクスが通い詰めた大英図書館の真裏にあった。