杉田玄白 すぎたげんぱく( A.D.1733〜A.D.1817)
若狭小浜藩医。江戸小塚原の死刑囚の腑分け(解剖)の見学を契機に、『解体新書』を前野良沢らと訳述。その回想録が『蘭学事始』。事件記として『後見草』を著す。ラクスマンへは貿易許可をほのめかしたにもかかわらず、レザノフへは拒否したのは約束違反ではないかと幕府の対応を批判した。
杉田玄白
若狭小浜藩医。江戸小塚原の死刑囚の腑分け(解剖)の見学を契機に、『解体新書』を前野良沢らと訳述。その回想録が『蘭学事始』。事件記として『後見草』を著す。
『解体新書』を刊行し蘭学の発展に貢献する
4年がかりで『解体新書』を翻訳した情熱
越前小浜藩医の子で、西玄哲に蘭方医学を学んだ。平賀源内の知己を得、オランダ人の定宿である長崎屋に出入りするようになる。前野良沢や中川淳庵といった同志たち、オランダ通詞や商館員、オランダ人医師らと交流、多くのオランダ書物に目を通した。その中に解剖書『ターヘル・アナトミア』があったという。39歳のときに、良沢や淳庵らと腑分け(解剖)を実見。この日のメンバーを中心に『ターヘル・アナトミア』の翻訳が開始された。オランダ語の辞書などない当時、良沢がオランダ語を学んでいたとはいえ、頻出する専門用語に作業は難航した。
『解体新書』はオランダ誤訳されたドイツ人・クルムスの解剖書を、注を除いた本文のみを翻訳したもの。翻訳に参加した桂川甫周の父で幕府奥医師でもあった桂川甫三によって、将軍に献上された。本文4巻と序図1巻からなる。
彼らの熱意は4年後に結実。『解体新書』の完成である。原書から挿絵を書き起こしたのは秋田蘭画の祖と呼ばれる小田野直武だ。強力な執筆陣によって、『解体新書』は高度な内容となった。吉宗時代に禁書制度が緩み蘭学が興る。『解体新書』は本格的な蘭医書翻訳事業の嚆矢となった。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
列強の接近
1804(文化元)年、ロシア使節レザノフ(Rezanov 1764〜1807)がラクスマンのもち帰った信牌を携えて長崎に来航し、通商関係の樹立を求めた。幕府は、朝鮮・琉球・中国・オランダ以外とは新たに外交・通商関係をもたないのが祖法であると拒否した。このときの幕府の対応は、杉田玄白 ❷ や司馬江漢らが批判したほど冷淡であった。レザノフは、シベリア経由で帰国の途中、日本に通商を認めさせるには軍事的な圧力をかける必要があると軍人に示唆した結果、1806(文化3)年から翌年にかけてロシア軍艦が樺太や択捉を攻撃する事件(フヴォストフ事件)がおこった。とくに、択捉守備兵が敗走したことから国内は騒然とした雰囲気となった。
化政文化
洋学の発達
化政文化 洋学
西川如見(1648-1724) | 天文暦算家。長崎出身で将軍吉宗に招かれて江戸へ。長崎で見聞した海外事情を『華夷通商考』で記述。 |
新井白石(1657-1725) | イタリア人宣教師シドッチの尋問で得た世界の地理・風俗を『西洋記聞』『采覧異言』で著述。 |
青木昆陽(1698-1769) | 将軍吉宗の命でオランダ語を学び、甘藷(さつまいも)栽培を進める。『蕃薯考』『和蘭文字略考』 |
野呂元丈(1693-1761) | 本草学者。将軍吉宗の命でオランダ薬物学を研究。『阿蘭陀本草和解』 |
山脇東洋(1705-62) | 古医方(実験を重んじる漢代の医方)による日本初の解剖書『蔵志』を著した。 |
前野良沢(1723-1803) | 杉田玄白と『解体新書』を訳述。 |
杉田玄白(1733-1817) | 前野良沢と『解体新書』を訳述。『蘭学事始』 |
大槻玄沢(1757-1827) | 蘭医。江戸に芝蘭堂を開く。『蘭学階梯』 |
宇田川玄随(1755-97) | 日本初のオランダ内科書『西説内科撰要』を著述。 |
宇田川榕菴(1798-1846) | イギリスの化学書を翻訳。『舎密開宗』 |
稲村三伯(1758-1811) | 最初の蘭日対訳辞書『ハルマ和解』(ハルマの蘭仏辞典を和訳)を作成。 |
志筑忠雄(1760-1806) | 『暦象新書』を訳述して、ニュートンの万有引力やコペルニクスの地動説を紹介。ドイツ人医師ケンペルの『日本誌』を翻訳して『鎖国論』と題した。 |
蘭方医学では、1774(安永3)年前野良沢(1723-1803)や杉田玄白(1733-1817)らが、西洋医学の解剖書『ターヘル=アナトミア』を訳述した『解体新書』を出版するという画期的な成果をあげた。蘭学はこれを機に発展期を迎え、医学·本草学·天文学·地理学などの各分野で発展をみせた。