尊王論 そんのうろん
天皇家を尊ぶ考え方で、その思想を尊王思想と呼ぶ。儒教の影響で、大義名分論が説かれた江戸時代に盛んとなった。江戸後期には、天皇を幕府より上位として絶対視する考え方が強まり、条約勅許問題では、攘夷論と結びついて討幕運動の基盤となった。
尊王論
天皇家を尊ぶ考え方で、その思想を尊王思想と呼ぶ。儒教の影響で、大義名分論が説かれた江戸時代に盛んとなった。江戸後期には、天皇を幕府より上位として絶対視する考え方が強まり、条約勅許問題では、攘夷論と結びついて討幕運動の基盤となった。
幕藩体制の動揺
化政文化
政治・社会思想の発達
化政文化 学問・思想の動き
経世論 | 〈化政期、封建制の維持または改良を説く経世論〉 | |
海保青陵 (1755-1817) | 藩営専売制の採用など重商主義を説き、他藩より利をとる方策を主張。『稽古談』(流通経済の仕組みなどを平易に説明) | |
本多利明 (1743-1820) | 開国による重商主義的国営貿易を主張。『西域物語』『経世秘策』(ともに開国交易を提案) | |
佐藤信淵 (1769-1850) | 諸国を遊歴し、著述につとめる。『経済要録』(産業振興・国家専売・貿易の展開を主張)『農政本論』 | |
後期水戸学 | 水戸藩の『大日本史』編纂事業(1657〜1906)を中心に興った学派 | |
9代藩主徳川斉昭を中心に、藤田幽谷・東湖父子、会沢安らの尊王斥覇理論から攘夷論を展開。藤田東湖『弘道館記述義』会沢安『新論』→ 影響:尊王論と攘夷論とを結びつけ、尊王攘夷論(尊王:将軍は天皇を王者として尊ぶ。攘夷:諸外国を打払う。)を説き、幕末の思想に影響 | ||
藤田幽谷 (1774-1826) | 彰考館総裁として、『大日本史』編纂にあたる | |
藤田東湖 (1806-55) | 幽谷の子。藩主徳川斉昭の側用人として藩政改革にあたり、弘道館を設立。『弘道館記述義』 | |
会沢安 (1782-1863) | 藤田幽谷に師事し、彰考館総裁として、徳川斉昭の藩政改革に尽力。『新論』で尊王攘夷論を唱えた。 | |
尊王論 | 頼山陽 (1780-1832) | 安芸の人。『日本政記』『日本外史』を著し、勤王思想を主張。源平から徳川氏にいたる武家盛衰を記述 |
国学 | 平田篤胤 (1776-1843) | 大政委任論の立場に立つ尊王論で、幕府を否定していない。篤胤の大成した「復古神道」は、儒仏に影響されない純粋な古道を明らかにし、幕末の尊王攘夷論に影響を与えた。『古道大意』『古史伝』(国学書) |
18世紀半ば以降には、尊王論が主張されるようになった。水戸藩の『大日本史』の編纂事業を中心におこった初期の水戸学は、朱子学を軸に国学や神道を総合し、天皇尊崇と封建的秩序を説いた。徳をもって治める王者としての天皇を尊ぶべきだという朱子学的な名分論から尊王論を主張したが、それはあくまでも名分論にすぎなかった。
後期の水戸学では、藤田幽谷(1774-1826)は、尊王が幕府の権威を維持するために重要であると説き、幽谷に学んだ会沢安(1782-1863)は『新論』で、対外的危機に対応して国家の独立を維持するために、天皇を中心とする政治·宗教体制を構想し、幽谷の子で『弘道館記述義』を密いた藤田東湖(1806-55)や徳川斉昭らも尊王攘夷運動に強い影響を与えた。また、垂加神道を学んだ竹内式部(1712-67)は、京都で若い公家たちに『日本書紀』などを講義し、尊王論を説いて追放刑となり(宝暦事件)、さらに兵法家の山県大弐(1725-67)は、『柳子新論』を著し、朝廷が政権を担当すべきであるという尊王論を説き、幕府の腐敗を批判して死罪に処せられた(明和事件)。
このほか、尊王思想を説いて全国をまわり、筑後久留米で悲憤のあまり自殺した高山彦九郎(1747-93)、天皇陵の荒廃を嘆いて各地を調査した蒲生君平(1768-1813)、『日本外史』などの著作で尊王思想を説いた頼山陽(1780-1832)らが現れた。
古典の研究、復古思想の立場から尊王論を唱えた国学者の本居宣長は、将軍は天皇の委任(「御任」)により政権を担当しているのだから、将軍の政治にしたがうことが天皇を尊ぶことになると説き、幕府政治を否定する考えはなかった。しかし、平田篤胤の復古神道は、各地の豪農・神職たちに受け入れられ、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた。