シーボルト事件 A.D.1828〜
1828年、オランダ商館の医師であったドイツ人シーボルトが帰国の時に、国外持出禁止の日本地図を高橋景保より入手したことが発覚し、シーボルトは国外追放、景保は投獄された事件。
シーボルト事件
1828年、シーボルトが帰国の時に、国外持出禁止の日本地図を高橋景保より入手したことが発覚し、シーボルトは国外追放、景保は投獄された事件。
幕藩体制の動揺
化政文化
洋学の発達
19世紀前半にはオランダ商館の医師であったドイツ人シーボルト(Siebold, 1796-1866)が長崎郊外に嗚滝塾を、緒方洪庵(1810-63)が大坂に適塾(適々斎塾)を開き、多くの優れた人材を育成し、のちの西洋文化吸収の土台をつくった。
しかし幕府は、洋学を科学技術の分野に限定し、西洋の政治・社会・思想の研究を通して幕府の政治・外交などを批判するのを抑圧しようとした1828(文政11)年には、シーボルトが帰国の際にもち出し禁止の日本地図をもっていたことから国外追放処分にし、この地図を渡した高橋景保ら関係者を処罰したシーボルト事件や、幕府の外交政策を批判した渡辺崋山らを処罰した蛮社の獄などがおこっている。そのため、その後の洋学は医学·兵学・地理学など実学としての性格を強めた。
幕府の衰退
列強の接近
列強の接近と幕府の対応
徳川 | 列強の接近 | 元号 | 幕府の対応 | |||
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家治 | 1778〜79 | 露 | ナタリア号が、蝦夷地に来航 (通商を求めたが松前藩は拒否) | 天明 | 1783 | 工藤平助の『赤蝦夷風説考』の意見採用 |
1784 | 田沼意次による蝦夷地開拓を計画 | |||||
1786 | 最上徳内を蝦夷地へ派遣 | |||||
家斉 | 1792 | 使節ラクスマン根室に来航。漂流民(大黒屋光太夫ら)を伴い、エカチェリーナ2世の命で通商を要求 (幕府は通商を拒絶。長崎入港を許可する証明書〈信牌〉を渡し、帰国させる) | 寛政 | 1792 | 林子平が『三国通覧図説』『海国兵談』で海防を説いたことを幕府批判として処罰 | |
1798 | 近藤重蔵・最上徳内ら、択捉島を探査(「大日本恵土呂府」の標柱をたてる) | |||||
1799 | 東蝦夷地を直轄地とする | |||||
1800 | 伊能忠敬、蝦夷地を測量 | |||||
1804 | 使節レザノフ、長崎に来航 (通商を要求するが、幕府は拒絶) | 文化 ・ 文政 | 1806 | 文化の撫恤令(親水給与令) | ||
1807 | 松前藩と蝦夷地をすべて直轄(松前奉公の支配下のもとにおき、東北諸藩を警護にあたらせる)。近藤重蔵、西蝦夷地を探査 | |||||
1808 | 英 | フェートン号事件 (英軍艦フェートン号、長崎に侵入) | 1808 | 間宮林蔵、樺太とその対岸を探査(間宮海峡の発見) | ||
1810 | 白河・会津両藩が江戸湾防備を命じられる | |||||
1811 | 露 | ゴローウニン事件 (露軍艦長ゴローウニン、国後島に上陸して捕らえられ、函館・松前に監禁) | 1813 | 高田屋嘉兵衛の送還でゴローウニンを釈放 | ||
1821 | 蝦夷地を松前藩に還付 | |||||
1824 | 英 | 英船員、大津浜に上陸(常陸) 英船員、宝島に上陸(薩摩) | 1825 | 異国船打払令(無二念打払令) | ||
1828 | シーボルト事件 | |||||
家慶 | 1837 | 米 | モリソン号事件 (米船モリソン号、浦賀と山川で砲撃される) | 天保 | 1839 | 蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英らを処罰) |
1842〜42 | 英 | アヘン戦争 (清が英に敗れ、南京条約を締結) | 1842 | 天保の薪水給与令(異国船打払令を緩和) | ||
1846 | 米 | 米東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に来航 | 弘化 ・ 嘉永 | 1844 | オランダ国王開国勧告(幕府は拒絶) | |
家定 | 1853 | 米東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。 | 1846 | ビッドルの通商要求拒絶 | ||
1853 | 露 | 使節プチャーチン、長崎に来航 | 1853 | 大船建造の禁を解く | ||
1854 | 日米和親条約・日露和親条約・日英和親条約締結 | |||||
1855 | 日蘭和親条約締結 |