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東南アジアへの侵略と統治地図 ©世界の歴史まっぷ

阮朝


西山朝

安南, コーチシナ, トンキン

阮朝 げんちょう( A.D.1802〜A.D.1945)
西山朝を倒したベトナム最後の王朝。国号を越南国(ベトナム)と称した。清朝の朝貢国だったが、1858年からフランスの侵略が始まり、84年のユエ条約で保護国とされた。ベトナムの宗主権を主張する清とフランスの清仏戦争(1884〜85)で敗れた清は天津条約でそれを認めたため、阮朝はフランス領インドシナ連邦に組み込まれた。

阮朝

首都:フエ(ユエ)

  • 西山朝を倒したベトナム最後の王朝。国号を越南国(ベトナム)と称した。清を宗主国として諸制度を取り入れたが、19世紀中頃からフランスの侵略を受け、インドシナ連邦に組み込まれた。
  • ベトナム最後の王朝。都はユエ(フエ)。清の朝貢国だったが、1858年からフランスの侵略が始まり、84年のユエ条約で保護国とされた。1945年、最後の皇帝バオダイの退位で滅亡した。
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アジア諸地域の繁栄

清代の中国と隣接諸地域

清朝と東南アジア

明朝を破った黎利れいりがハノイにて即位し黎朝(1428〜1527・1532〜1789)を開き、国号を大越国とした。しかし16世紀前半には一時臣下(莫氏ばくし)に国王位を奪われたが、まもなく復興した。しかし実権は北部の鄭氏ていしと、南部の阮氏げんしに握られ、黎朝は南北に分裂した状態となった。18世紀後半、西山党の乱せいざんとうのらんを契機に西山党の阮氏一族が北の鄭氏と南の阮氏を滅ぼし、ベトナムを統一して西山朝(1771〜1802)をたてた。西山党に滅ぼされた南部阮氏の一族である阮福暎げんふくえいはタイへ亡命していた。ラーマ1世やフランス人宣教師(ピニョー=ド=ベーヌ)の支援をうけた彼は、1802年、西山朝を倒してベトナムを統一して即位(嘉隆帝かりゅうてい 位1802〜1820)し、フエを都とした越南えつなん(ベトナム)を開いた(阮朝 1802〜1945)。

大陸部の諸国の興亡 黎朝 清朝と東南アジア 16世紀末のアジア地図
16世紀末のアジア地図 ©世界の歴史まっぷ

南アジア・東南アジア世界の展開

大陸部の諸国の興亡

ベトナムは15世紀初め明の永楽帝に征服されてその支配下に入ったが、まもなく明軍を駆逐した黎利れいり(レ・ロイ 位1428〜1433)によってハノイに都をおく黎朝(1428〜1527、1532〜1789)が創始された。この王朝は10〜11世紀の前黎朝に対し後黎朝とも呼ばれる。15世紀後半の黎聖宗(位1460〜1497)の時代が最盛期で、内にあっては明朝にならって諸制度を整え、また耕地の公田制を採択し、外に対しては南方のチャンパーと戦ってこれを壊滅させ、さらに西方のラオスに進出するなど、国威を大いに高めた。しかし、彼の死後はふるわず、1527年に臣下の莫登庸ばくとうよう(位1527〜1529)に王位を奪われた。黎朝は1532年に復活するが、権力は弱く、国土の北半はハノイの鄭氏ていし東京とんきん)、南半はフエ(順化)の阮氏げんし広南クアンナム)の実権下におかれた。1771年に広南国の阮氏に対して反乱をおこしたタイソン党(西山党)は、阮氏を破り鄭氏を追い、清の乾隆帝と結んで勢力の回復をはかった黎朝を最終的に滅ぼし(1789)、一時ベトナム全土を支配した(タイソン朝(西山朝)1771〜1802)。しかし、内紛と指導者(阮文岳・阮文呂・阮文恵の3兄弟)の死によって弱体化し、1802年に広南国阮氏の一族阮福暎げんふくえいによって滅ぼされた。阮福暎(世祖嘉隆帝かりゅうてい 位1802〜1820)はフエに都をおく王朝(阮朝 1802〜1945)を創始し、国号をベトナム(越南)と定め、黎朝や清朝の制度にならって国制を整えた。しかし、阮福暎がタイソン軍との戦いに際してフランス人宣教師ピニョー=ド=ベーヌ Pigneau de Behaine (1741〜99)の援助をうけたため、この王朝はフランスとの関係が深く、これがフランス領インドシナ成立の遠因となった。

アジア諸地域の動揺

南アジア・東南アジアの植民地化

大陸部の植民地化

イギリスとインド経営を争って敗れたフランスは、19世紀半ばのナポレオン3世の時代からインドシナの植民地化を進めた。これよりさき、阮福暎げんふくえい嘉隆帝かりゅうてい)の全国制覇に貢献したフランス人宣教師ピニョー=ド=ベーヌ Pigneau de Behaine (1741〜99) の活躍があり、ベトナム(阮朝)におけるフランスの優位は確立していた。しかし嘉隆帝の死後、阮朝は排外政策をとってキリスト教を迫害したため、フランスは1858年にスペイン人宣教師殺害事件を口実にスペインと共同で出兵し、戦後結んだ第1次サイゴン条約 Saigon (1862)によってキリスト教布教の自由、コーチシナ東部3省と崑崙等の割譲などを認めさせた。

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その後フランスはコーチシナ西部3省にも進出してコーチシナ全土を支配下においた。これ以後コーチシナ(メコン=デルタ)は急速に開拓されて米の大生産地となり、植民地政府と植民地起業家に莫大な富をもたらした。

フランスはさらに北に目を転じて、1874年の第2次サイゴン条約でソンコイ川(紅河)航行権をはじめとする諸権利をえた。しかし阮朝は条約締結後も清朝や、劉永福率いる太平天国の残存勢力「黒旗軍」と結んで反抗したため、フランスは1883年に首都フエ Huế (ユエ)を占領して条約を結ばせ、ベトナムを完全な保護国とした。これを第1次フエ条約あるいはフランスの代表の名をとってアルマン条約 Harmand と呼ぶ。しかしなお北部での抵抗が続いたためフランスは翌年第2次フエ条約(パトノートル条約 Patenôtre )を結ばせ支配権をさらに確実なものとした。一方、ベトナムに対する宗主権を主張する清朝は、阮朝・フランス間に結ばれた諸条約を承認せず、1884年ついに清・仏両軍の戦いとなった(清仏戦争)。この戦いはフランスの勝利に終わり、翌年結ばれた天津条約で、清朝はベトナムに対するフランスの保護権を認めた。そこでフランスは1887年、直轄地コーチシナ・保護領トンキン・保護国アンナン・カンボジア(1863年保護国化)からなるフランス領インドシナ連邦をつくり、ハノイ(一時サイゴン)に駐在するインドシナ総督の管轄下においた。ついで、1895年以後保護下にあったラオスを連邦に編入している(1899)。

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歴代皇帝

  1. 嘉隆帝(かりゅう・ザーロン):阮福暎(1802〜19)
  2. 明命帝(めいめい・ミンマン):阮福晈(1809〜40)
  3. 紹治帝(しょうち・ティエウチ):阮福暶(1840〜47)
  4. 嗣徳帝(しとく・トゥドゥク):阮福時(1847〜83)
  5. 育徳帝(いくとく・ズクドゥク):(1883)
  6. 協和帝(きょうわ・ヒエプホア):阮福昇(1883)
  7. 建福帝(けんふく・キエンフク):阮福昊(1883〜84)
  8. 咸宜帝(かんぎ・ハムギ):阮福明(1884〜85)
  9. 同慶帝(どうけい・ドンカイン):阮福昪(1885〜88)
  10. 成泰帝(せいたい・タインタイ):阮福昭(1888〜1907)
  11. 維新帝(いしん・ズイタン):阮福晃(1907〜16)
  12. 啓定帝(けいてい・カイディン):阮福晙(1916〜25)
  13. 保大帝(ほだい・バオダイ):阮福晪(1925〜45年)

※「育徳」は元号ではなく、居所「育徳堂」に由来する。在位3日で廃されたため元号を定められず、改名もできなかった。 参考 Wikiwand

世界遺産

フエの歴史的建造物群
フエの王宮(世界遺産/画像出典:WIKIMEDIA COMMONS

19〜20世紀に栄えたベトナム最後の王朝・阮朝の宮殿や政府官庁などが残る旧都。ヴォーバン式(稜堡式城郭)の建築方法を取り入れ、北京の紫禁城を模した王宮やバロック様式の陵墓などが点在する。  フエの歴史的建造物群 – 世界の歴史まっぷ

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