洋務運動 ( A.D.1860〜A.D.1890
アロー戦争敗戦後、外国との和親や西欧の近代技術の摂取と近代産業の育成と富国強兵による国家体制の再建を目指した。曾国藩・李鴻章・左宗棠らを中心に近代的兵器工場、海軍、鉄道・電信事業、鉱山開発、紡績工場・汽船会社設立などを推進。
洋務運動
1860年ごろから清で始まった、ヨーロッパの近代技術導入を中心とする富国強兵運動。曾国藩・李鴻章・左宗棠らの漢人官僚が中心となって運動を進めた。軍事工業部門から始まり、70年代には軽工業にも拡大、鉄道建設や鉱山開発も進められた。しかし、運動は清朝の支配体制維持を目指すものであった。清仏戦争・日清戦争の敗北により、思想や政治体制にはいっさいふれようとしない運動の限界が明らかとなった。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
洋務運動
アロー戦争後の清朝では、幼年の同治帝(位1861〜74)にかわって、叔父の恭親王奕訢(1832〜98, 初代総理衙門長官も務める)が朝廷の中心となり、従来の排外主義を転換した。そのため外国との和親や西欧の進んだ技術の摂取と、近代産業の育成と富国強兵による国家体制の再建がはかられた。このような試みを洋務運動という。洋務運動を主導したのは、太平天国の平定に活躍した曾国藩・李鴻章・左宗棠や張之洞(1837〜1909)らの漢人官僚であり、彼らは富国強兵をめざして、西洋の学問や技術を導入した。主な事業としては、軍需産業を中心とする近代的兵器工場の設立 ❶、海軍の創建(李鴻章の北洋艦隊 ❷、左宗棠の福建艦隊など)、紡績工場・汽船会社の設立、電信事業、鉱山の開発、鉄道の敷設、外国語学校の設立などが推進された。洋務運動が推進された同治年間は、列強の進出も一段落して、内外ともに一時的な安定がもたらされたので、この時期を同治中興と呼んでいる。しかし洋務運動は、「中体西用」をモットーとするように、中国の伝統的道徳倫理を根本としながら、西洋の科学技術を利用するものであって、政治体制の改革や中国社会全体の近代化をめざすものではなかった。
中体西用
中体西用とは、あくまで中国の伝統的文化と国制を本体とし、これを支えるために西洋の技術を利用するという立場である。外来のものはなんでも拒絶する排外主義に比べれば開明的な立場といえる。しかし、そこにはなお中国の儒教文化と皇帝専制政治を絶対とする価値観が厳然と存在し、西洋の文化のうち、利用すべきものは軍事を中心とする技術のみとし、その近代的政治制度や思想にはマイナスの価値しか認めなかった。議会政治や立憲論など、そうした近代的政治制度・思想の導入が本格的に議論されるのは、洋務運動の挫折後、変法運動の展開をまたねばならなかった。
また、近代産業の導入も国家・官僚の主導でおこなわれたため、設立された官営または半官半民の企業は、営業独占権など強力な特権をもち、かえって民間企業の成長を阻害する結果となった。そのうえ官僚と企業の結びつきは、洋務運動が官僚個人の私的蓄財に利用されるという側面をもつことになった。こうしたことから、洋務運動は十分な成果をあげえず、やがて清仏戦争(1884〜85)と日清戦争(1894〜95)の敗戦によって挫折に追いこまれた ❸ 。
中国の洋務運動と日本の殖産興業
清末の洋務運動と明治政府の殖産興業政策は、ともに西洋技術の導入による近代産業の育成をはかるものであり、時期的にも並行するものであった。しかしその結果にはかなりの違いがみられ、たとえば、綿紡績工業は、両国ともに力を入れた分野であったが、1894年当時の紡錘数は、日本の50万錘に対し、中国は13万錘にすぎず、日清戦争をへた1903年には、日本の138万錘に対し、中国は32万錘と差はさらに拡大した。こうした結果にはさまざまな要因が考えられるが、以下のことがおもな理由としてあげられる。
- アヘン戦争・アロー戦争の2度の敗戦をへた清のほうが、日本にくらべて外国からの圧力がいちだんと強力であり、とくに多額の賠償金負担と租界の存在が経済発展の足かせとなった。
- 日本では、幕末までの商品経済の全国的発展と国土の狭さによって統一的な国内市場がほぼ形成されていたのに対し、中国では、国土の広大さと地域による著しい経済較差によって地域ごとの小経済圏に分裂した状態にあり、近代産業の成長に不可欠な全国的な商品流通の条件が整わなかった。
- 中国がみずからの伝統文化から簡単には脱却できなかったのに対し、日本は外来文化を受容することにこだわりが少なかった。
- 日本では、江戸期以来の教育の普及により、外来文化を学習する条件が整っていたのに対し、中国では教育の普及が遅れていた(中国の識字率は10%以下)。
❶ 近代的兵器工場:李鴻章による上海の江南製造総局(軍需工場)、左宗棠による福州船政局(造船所)、張之洞による大冶鉄山・漢陽鉄廠(のちの漢冶萍公司)などが代表的なものである。
❷ 北洋艦隊:李鴻章が洋務運動の時期に、淮軍を基盤として建設した近代的な海軍。
❸ 洋務運動の挫折:清仏戦争では福建艦隊が、日清戦争では北洋艦隊が壊滅し、洋務運動の象徴であった海軍は無に帰した。