明治維新 ( A.D.1867〜A.D.1868
薩長など西南雄藩の革新的下級武士の主導で1868年、江戸幕府を倒し、百事御一新を掲げて進められた近代国家形成の契機となった政治変革。以後、殖産興業・富国強兵をスローガンに近代化政策を推進。西南戦争後、自由民権運動を経て、1889年明治憲法による国家体制を確立した。
明治維新
薩長など西南雄藩の革新的下級武士の主導で1868年、江戸幕府を倒し、「百事御一新」を掲げて進められた近代国家形成の契機となった政治変革。以後、殖産興業・富国強兵をスローガンに近代化政策を推進。西南戦争後、自由民権運動を経て、1889年明治憲法による国家体制を確立した。御一新または維新と呼ぶ。
江戸幕府を崩壊させ、天皇親政体制に転換させた支持・社会・経済の一大変革。明治政府は西欧的近代国家の樹立を目指し、改革の範囲は中央官制・身分体制・地方行政・外交など多岐におよんだ。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
明治維新(世界史)
対外危機の中で、下級武士を中心に倒幕運動がおこり、幕府の大政奉還をへて、1868年、天皇親政の明治政府が成立した(明治維新)。新政府は列強の進出に対抗するため、西欧文明の積極的受容による近代化と富国強兵をはかり、政治・経済・軍事・教育のあらゆる分野で急速な改革を進め、殖産興業を掲げて工業の発展に力を注いだ。
近代国家の成立
明治維新と富国強兵
新政府の発足
1868(明治元)年1月、新政府はいち早く条約締結諸国に王政復古によって天皇を主権者とする新政権が成立したことを通告し、諸国の承認を得、国内に向かっては開国和親の布告を行った。ついで同年3月14日、旧幕府征討の軍勢が江戸に向かいつつある最中に、新政府は、京都御所の紫宸殿において、明治天皇自身が群臣をしたがえて天地の神々に誓約するというかたちをとって五箇条の誓文を発し、新しい政治の方針を天下に表明した。これは、政局の動揺をおさえ、公家・諸侯・諸藩士を新政府のもとに結集させるために出され、公議輿論の尊重・開国進取・旧習の打破など新しい政治の基本方針を明らかにし、併せて、天皇が国の中心であるという政治理念を国内に示したものであった。
翌日、太政官がかかげた五榜の掲示(高札)では、五倫の道を説き、徒党・強訴を禁じ、キリスト教を邪教として禁じるなど、旧幕府のそれまでの儒教道徳に基づく教学政策を引き継いでいたが、それらはすべて5年以内に撤廃された。さらに、同年閏4月、政体書を発布して誓文の方針を官制に具体化して、新政府の組織をととのえた。
政体書の官制
政体書では、「天下ノ権力ヲ総テ太政官二帰」せしめて、中央集権化をはかるとともに、アメリカ憲法を模倣して、その権力を立法、司法・行政の三権にわかち、形式的には三権分立の体裁をととのえた。立法を担当する議政官には上局・下局を設置し、行政部門は行政官のもとに4官を設け、司法部門には刑法官をおいた。高級官吏は4年ごとに互選で交代させることとしたが、実際には有名無実であった。なお、地方官制は府・藩・県の三治制とした。
東京行幸: 1868年7月、江戸を東京と改称、翌年3月には天皇が東京に移り、東京遷都となった(東京行幸)。図は橋のかかっていない多摩川に船橋を浮かべてわたったときの様子。
1868(明治元)年9月、新政府は元号を明治と改めて、天皇一代の間は一元号とする一世一元の制をたてた。またそれに先立ち、同年7月、江戸を東京と改称し、10月には明治天皇(在位1867〜1912)が東京行幸を行い、翌1869(明治2)年初めには政府もここに移り、いわゆる東京遷都を断行して、従来の旧習を一新して新政を推進する決意を示した。
こうして始められた明治新政府の一連の政治的·社会的大変革は、封建的な制度を打破し、国際社会において欧米先進列強諸国と肩をならべる近代日本の建設をめざす出発点となった。当時それは“御一新“と呼ばれ、新しい時代の到来として大きな期待がかけられた。今日では幕末から明治初年にかけての変革を総称して明治維新と呼んでいる。
御一新と維新
新政府は成立に際して発したいわゆる王政復古の大号令のなかで、「百事御一新」を唱え、政治をすべて新しくすることを強調した。御一新という言葉は、そうした期待をこめて世に広まり、大きな変革を意味するものとして、広く用いられるようになった。この一新に通じる言葉として中国の古典である『詩経』のなかにでてくる維新という古語があてられたものと思われる。明治維新とは狭くいえば幕府の崩壊・新政府の成立を指すが、歴史用語としては幕末から明治初年にいたる政治的・経済的・社会的変革の過程を総称するものとして用いられている。