セオドア=ローズヴェルト Theodore Roosvelt( A.D.1858〜A.D.1919)
アメリカ第26代大統領(在位1901〜1909)。マッキンリーの死で副大統領から昇格。内政では革新主義の高まりを背景にトラスト規制などの改革政治を推進。外交では軍事力によるカリブ海政策を進め、日露戦争やモロッコ事件の講和を調停。
セオドア=ローズヴェルト
アメリカ第26代大統領(在位1901〜1909)。中国問題に関心を持つ。日本に友好的で、ポーツマス講和会議を仲介した。
共和党出身の第26代合衆国大統領。マッキンリーの死で副大統領から昇格し、内政では、革新主義の高まりを背景にトラスト規制などの改革政治を推進した。外交では、軍事力によるカリブ海政策を進め、また日露戦争やモロッコ事件の講和を調停した。
挫折を乗り越えた旧家の御曹司
ローズヴェルトには他の米大統領との違いが2つある。空前絶後の4選を果たしたことと、車椅子に乗っていたことだ。前半生は順調だった。旧家に生まれ、28歳で上院議員。海軍次官を経て38歳で民主党副大統領候補。だが落選し、翌年にはポリオで下肢の自由を失い、事実上の引退を余儀なくされる。8年後、ニューヨーク州知事として返り咲いた秋に大恐慌。だが積極策で評判を上げ、4年後には大統領に就任。ニューディール政策で恐慌を乗り切る。
第二次世界大戦勃発時はモンロー主義(欧州への不干渉)にのっとり物的支援に徹する。だが真珠湾攻撃で参戦。11万2000人の日系人を内陸部に強制収容し、原爆開発のマンハッタン計画を進め、チャーチルやスターリンとともに戦後世界の青写真を描いたが、終戦を目前に病死した。記者会見やラジオでの政策説明など、今では当たり前のマスメディアを重視の政治手法は、彼からはじまる。
帝国主義とアジアの民族運動
帝国主義と列強の展開
アメリカ合衆国
マッキンリーの暗殺で副大統領から昇格したセオドア=ローズヴェルト Theodore Roosevelt (任1901〜09)はさらに明確に帝国主義政策を推し進めた。カリブ海地域には、政治・財政不安が生じたときには軍隊を派遣して積極的に国際警察の役割を果たした(「棍棒外交」)。1903年にはコロンビアからパナマを独立させ、パナマ運河建設の権利を獲得した。他方、モロッコ問題ではアルヘシラス会議を主催してドイツの動きを牽制し、日露戦争ではポーツマス講和を斡旋した。
近代国家の成立
日露戦争と国際関係
日露戦争
日本政府(第1次桂内閣)は開戦にあたって、この戦争がきわめて苦しい戦いになることを予測して、巨額の戦費にあてるため、高橋是清(1854〜1936)日本銀行副総裁を派遣してアメリカや同盟国のイギリスで外国債を募集し、またアメリカヘは金子堅太郎を特使として派遣し、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルト( Theodore Roosvelt, 1858〜1919)に非公式に和平の仲介を打診した。
かねがね満州に対するロシアの独占的支配を警戒し、日篠両国の勢力均衡を望んでいたアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトは、日本政府の意向を受けてこの機会に和平の幹旋に乗り出し、ロシアもこれに応じた。アメリカのポ一ツマスで開かれた日露講和会議は、ロシア側が強い態度にでて難航したが、日本側が賠償金の要求を取り下げるなど譲歩したので、1905年9月、日本側首席全権小村寿太郎外相とロシア側首席全権ヴィッテ( Vitte, 1849〜1915)との間で日露講和条約(ポ一ツマス条約)の調印が行われた。これによって日本はロシアに、(1)韓国に対するいっさいの指導·保護·監督権の承認、(2)旅順・大連の租借権と長春·旅順間の鉄道及びその付属の権利の譲渡、(3)北緯50度以南の樺太の割譲、(4)沿海州とカムチャツカの漁業権の承認などを認めさせ、また満州(日本の租借地などを除く)からの両軍の撤兵、清国に対する機会均等なども取り決められた。
同時代の人物
東條英機 (1884〜1945)
対米英開戦の最高責任者となった総理大臣。陸軍大学校卒。関東軍参謀長として能吏ぶりを発揮、陸相を経て首相。終戦後、自決を図るも失敗、戦犯として絞首刑。