西太后 せいたいこう( A.D.1835〜A.D.1908)
咸豊帝の側室、同治帝の母。同治帝即位後、東太后と摂政として政治の実権を握った。同治帝死後、光緒帝を擁立し実権を維持。光緒帝親政開始後も実権を手放さなかった。1898年変法派弾圧。義和団事件で列強に敗れ変法的改革=新政を命じた。
西太后
咸豊帝の側室で同治帝の母。同治帝即位後、恭親王らと協力して実権を握り、東太后(咸豊帝の皇后)とともに摂政となった。同治帝死後は、光緒帝の摂政として政治を左右した。
清末の宮廷の中心人物。咸豊帝の側室(妃)で、同治帝の母。同治帝即位後、東太后とともに摂政として政治の実権を握った。同治帝の死後、光緒帝を擁立して実権を維持し、光緒帝の親政開始後も実権を手放さなかった。1898年に変法派を弾圧したが、義和団事件で列強に敗れたのち、変法的改革=新政を命じた。
帝国主義とアジアの民族運動
アジア諸国の改革と民族運動
戊戌の変法
1890年代後半、帝国主義列強の中国侵略が再び激化するなかで、清朝と中国の危機を救うため立憲制の政体へ転換する必要を説く康有為の主張は、若い光緒帝(位1874〜1908)を強く動かした。保守派の妨害をふりきって政治改革を決意した光緒帝は、1898年6月「明定国是(明らかに国是を定める)の勅令」を発布し、康有為・梁啓超らを登用して政治改革を断行させた。これを戊戌の変法という。康有為らは、科挙の改革(八股文 ❸ を廃止し、西学を試験科目に導入する)や、新官庁の創設、京師大学堂(北京大学の前身)をはじめ近代的学校の創設など、多くの改革案を次々と発布した。しかし、変法に反対する保守派は、西太后(前帝同治帝の母后、1835〜1908)のもとに結束し、同年9月、クーデタをおこして光緒帝を幽閉し、政権を奪取した。譚嗣同ら6名が処刑され、康有為・梁啓超らは失脚して日本に亡命し、変法派は一掃されて、戊戌の変法はわずか3ヶ月余りで挫折に終わった(百日維新)。このクーデタを戊戌の政変という。これ以後、西太后のもとで保守派が政権を握り、朝廷には排外的な傾向が強まっていった。
戊戌の変法の失敗にはさまざまな要因が考えられる。それは変法運動があくまで社会上層の知識人階層の運動に止まって、民衆の支持基盤を欠いたことである。そして康有為ら変法運動のリーダーは、仇教運動などの下からの民衆運動を蔑視・警戒するエリート知識人の意識を一歩も抜けだせなかった。ここに大きな失敗の原因が求められる。
西太后
満州族の名門エホナラ氏の出身。政敵の弾圧には果断な実行力を示しながらも、中国のおかれている現状を理解することなく、その政権のもとでは、海軍再建のための資金も、贅を尽くした離宮、頤和園の修築に流用されてしまった。
義和団事件
清末の華北一帯では、帝国主義列強の圧迫による世情不安と生活の窮迫を背景として、秘密宗教・武術結社に入会する民衆が増えていった。上述の仇教運動も、こうした秘密宗教・武術結社に指導されたものが多かったのである。たとえば、ドイツの膠州湾占領のきっかけとなった山東省でのドイツ人宣教師殺害事件は、秘密結社大刀会によるものであった。このような秘密宗教・武術結社のなかでも、山東省でおこった義和拳は、白蓮教系の八卦教の流れをくみ、拳法や棒術を熱心に修練し、お札を呑み呪文を唱えれば、刀剣や銃弾をもはねかえすことができる(「刀槍不入」)と称して、多数の熱狂的信者を集めていった。義和拳は、元来白蓮教の流れをくむところから、仇教とともに反清的傾向が強かった。一方、清朝の地方官憲が義和拳を排外運動に利用しようとして、これを団練(地方自衛軍)として公認し、ひそかに支援する態度をとったことから、彼らは新たに義和団の旗を掲げ、「扶清滅洋」(清朝を扶け、西洋人を撃滅する)のスローガンを唱えるにいたった。こうして義和団は、山東から直隷(北京を含む現在の河北省)一帯に広がり、1900年には大挙北上して天津・北京に迫る勢いとなった。同年6月、義和団はついに北京に入り、各国公使館を包囲すると、これを好機と判断した西太后ら清朝保守排外派は、義和団を支援して各国に宣戦を布告した。これに対し、日本・ロシアを主力とするドイツ・オーストリア・イギリス・フランス・イタリア・アメリカの8カ国は、在留外国人の保護を名目に共同出兵にふみきり(8カ国共同出兵) ❶、8月、抵抗を排除して北京を占領し、在留外国人を救出した。以上の経緯を義和団事件(北清事変、1900〜1901)という。
近代国家の成立
日露戦争と国際関係
北清事変と日英同盟
このような列強の進出に対抗して、清国内には光緒帝(1871〜1908)のもとで康有為(1858〜1927)·梁啓超(1873〜1929)らを中心に ❶ 、明治維新以来の日本の改革にならって立憲政治を取り入れて国内の改革をはかり、国力を充実しようとする動き(変法自強の運動(戊戌の変法))がおこったが、1898年、西太后(1835〜1908)ら保守派のクーデタによって変法派は一掃され、その多くは日本などの海外に亡命を余儀なくされ、改革は挫折した(戊戌の政変)。
19世紀末、日清戦争に敗れて洋務運動からの転換を迫られた清国は、康有為らを中心に明治維新を範に議会政治を基本とする立憲君主制をめざす変法運動を展開した。しかし、西太后によって変法運動は弾圧され、義和団の乱を招くこととなった。 参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠