露仏同盟
ロシアとフランスが1894年に正式調印した政治・軍事同盟。フランスはビスマルク体制による国際的孤立から脱し、三国同盟と対抗し、ロシアへのフランス資本導入の契機となった。
露仏同盟
- ロシアとフランスが1894年に正式調印した政治・軍事同盟。これによって、フランスの国際的孤立から脱して、三国同盟と対抗し、フランス資本によるロシア援助への道を開いた。
- ロシアとフランスが1894年に正式調印した政治・軍事同盟。フランスの国際的孤立からの脱出、ロシアへのフランス資本導入の契機となった。
帝国主義とアジアの民族運動
帝国主義と列強の展開
フランス
第三共和政のフランスはビスマルクの巧妙な対仏包囲網のためヨーロッパでの活動を狭められた分、1880年代から植民地拡大政策をとり、インドシナ・アフリカに広大な植民地を獲得した。フランスは零細な農業経営が多く、工業の発展も停滞的であったため、中産階級の豊かな国内資金は大銀行に流入し、多くの年金生活者を生みだした。他方、大銀行はロシア・トルコ・バルカン諸国にさかんに債権投資をおこなった。ドイツ帝国でヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) が即位し、世界政策を展開して海外進出を積極化させる1890年には、フランスをめぐる国際情勢は大きく変わった。まず、露仏同盟(1894年)を結んで国際的孤立を脱し、イギリスとは北アフリカ・北米・タイなどでの利害を調整し、1904年には、日露戦争後の国際情勢に対処するため英仏協商を結んだ。
ロシア
1890年代のロシアは蔵相ヴィッテ Vitte (1849〜1915)の政策を採用し、重工業を中心に政府の強力な保護・監督のもとで急速な工業化が進められた。工業製品のための広い国内市場のえられないロシアでは、フランスなどから国外資本を導入し、シベリア鉄道建設のような国家事業をてこに国内開発が進められ、南ロシアには鉄鋼業も発達した。露仏同盟の締結はフランスからの投資を推進することになった。農奴解放後の土地不足と納税負担に悩む農民は出稼ぎ労働者となって都市に流入し、彼らの低賃金労働が工業の発展を支えた。
世界分割と列強対立
同盟外交の展開と列強の二極分化
ビスマルクが構築した同盟関係は、アルザス・ロレーヌを奪還しようと復讐心に燃えるフランスと、東欧へ版図を広げようという野望を抱くロシアとの間の離間をはかるものであった。当のフランスは第三共和政のもとで議会主義政治が定着しつつあり、ツァーリの専制帝国ロシアに対する違和感も根強かった。他方、仏露両国には外交的孤立への不安から解放されることを望んでもいた。ビスマルクが失脚すると、1890年ドイツは対外行動の自由を広げるため、ロシアとの再保障条約の更新をみおくった。フランスとロシアは接近し、1894年露仏同盟が成立した。
ドイツもオーストリア=ハンガリー・イタリアとの間の三国同盟を更新し、ヨーロッパの国際関係は、三国同盟と露仏同盟という二大ブロックが対峙する形になった。
アジア諸国の改革と民族運動
日露対立と列強
ロシアの東三省占領は、日本とロシアの対立を深めるとともに、イギリスやアメリカにも強い警戒の念を抱かせた。当時イギリスは、南アフリカ戦争に苦戦し、アフガニスタン・イラン方面でもロシアと鋭く対峙する情勢下で、地理的に遠い極東方面でロシアと対峙するパートナーを必要と考えるにいたった。こうして極東における利害が一致した日本とイギリスは、1902年、日英同盟( 同盟外交の展開と列強の二極分化)を締結した。イギリスにとってこれは、伝統の「光栄ある孤立」の放棄でもあった。日本では、伊藤博文のようにロシアとの協調路線を説く意見もあったが、政府(桂太郎内閣)は、日英同盟と、同じくロシアを警戒するアメリカの援助を背景に、ロシアに対する戦争準備を進めていった。一方、フランスは露仏同盟によってロシアを支援し、バルカン方面でロシアと対立していたドイツも、ロシアの関心をヨーロッパからアジアにむけさせるため、ひそかにロシアの極東政策を支援し、日本とロシアとの衝突はさけられぬ勢いとなっていった。