日韓協約( A.D.1904〜A.D.1907)
- 第1次日韓協約:1904 日露戦争中の1904年8月に締結した日本と韓国の協約。日本が推薦する財政・外交顧問の任用を義務づけた。
- 第2次日韓協約:1905 別名、韓国保護条約。日露戦争後の1905年11月に日本が強要した協約。日本が韓国の外交権を奪った。
- 第3次日韓協約:1907 日本が強制した協約。これによって統監の韓国内政支配権が確立し、韓国軍隊が解散させられた。
日韓協約
韓国の植民地化を進めるため、日本が大韓帝国と結んだ3次にわたる協約。
- 第1次日韓協約:1904 日露戦争中の1904年8月に締結した日本と韓国の協約。日本が推薦する財政・外交顧問の任用を義務づけた。
- 第2次日韓協約:1905 別名、韓国保護条約。日露戦争後の1905年11月に日本が強要した協約。日本が韓国の外交権を奪った。
- 第3次日韓協約:1907 日本が強制した協約。これによって統監の韓国内政支配権が確立し、韓国軍隊が解散させられた。
帝国主義とアジアの民族運動
アジア諸国の改革と民族運動
日本の韓国併合
日露戦争中から、日本は韓国に対し3次にわたる日韓協約(1904, 05, 07)を強要し、韓国への干渉を強化していった。とくに日露戦争後に締結された第2次日韓協約(日韓保護条約)では、日本政府の代表機関である統監府をソウルにおき、韓国の外交権を接収して事実上の保護国とした。初代統監に就任した伊藤博文(1841〜1909)は、韓国併合の準備を進め、1907年、高宗皇帝がオランダのハーグで開催中の第2回万国平和会議に密使を派遣して韓国の危急を訴えるハーグ密使事件をおこすと、高宗に迫って退位させ、第3次日韓協約を結んだ。さらに韓国の内政をも統監府の監督下におき、秘密協定により韓国軍を解散させた。
近代国家の成立
日露戦争と国際関係
韓国併合
日朝関係年表
1894 (明治27年) | 3 | 甲午農民戦争(東学党の乱) | |
8 | 日清戦争勃発 | ||
1895 | 4 | 下関条約(清は朝鮮の独立を許可) | |
10 | 閔妃殺害事件(公使館守備隊による閔妃殺害) | ||
1897 | 10 | 朝鮮、国号を大韓帝国(韓国)と改称 | |
第1次桂内閣 | 1904 | 2 | 日露戦争勃発(〜05) 日韓議定書調印(日本は事実上必要な土地の収用など、便宜供与を約する) |
8 | 第1次日韓協約調印(日本政府推薦の財政・外交顧問の設置) | ||
1905 | 7 | 桂・タフト協定(米が日本の韓国保護国化を承認) | |
8 | 第2次日英同盟協約(英が日本の韓国保護国化を承認) | ||
9 | ポーツマス条約(露が韓国に対する日本の指導・保護・監理を承認) | ||
11 | 第2次日韓協約(日本が外交権を掌握して韓国を保護国化) | ||
12 | 漢城に統監府を設置 | ||
1906 | 2 | 統監府開庁(初代統監:伊藤博文) | |
第1次西園寺内閣 | 8 | 義兵運動が本格化 | |
1907 | 7 | ハーグ密使事件(韓国皇帝高宗の退位、純宗の即位) 第3次日韓協約(内政権を接収し韓国軍隊を解散) |
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8 | 義兵運動が本格化 | ||
第2次桂内閣 | 1908 | 12 | 東洋拓殖会社(東拓)設立 |
1909 | 7 | 韓国併合を閣議決定 | |
10 | 伊藤博文暗殺事件(安重根がハルビン駅頭で殺害) | ||
1910 | 8 | 韓国併合(韓国併合条約調印)。大韓帝国(韓国)を朝鮮と改称 | |
9 | 土地調査事業の開始(〜18) | ||
10 | 朝鮮総督府の設置(初代朝鮮総督:寺内正毅) | ||
1911 | 4 | 土地収用例制定。 | |
8 | 朝鮮教育令(同化教育の推進)公布 | ||
1919 | 3 | 三・一独立運動(パゴダ公園で独立宣言) | |
1923 | 9 | 関東大震災(関東全域で「朝鮮人狩り」) | |
1925 | 4 | 治安維持法を朝鮮・台湾・樺太に公布、5月施行・朝鮮神宮の創建 |
日露戦争の勝利によって日本の大陸進出は本格化した。すでに日露戦争中の1904(明治37)年8月に日本は韓国と第1次日韓協約を結び、日本人顧問を派遣して韓国の財政と外交に介入した。翌1905年には、アメリカとの間に桂・タフト協定を取り交わし、日本の韓国、アメリカのフィリピンに対する指導権を相互に確認し合った。ついで戦後の1905(明治38)年11月には、第2次日韓協約(韓国保護協約、乙巳保護条約)を結んで日本は韓国の外交権を握り、漢城(現ソウル)に韓国統監府をおき、伊藤博文が初代統監となって統監政治を始めた。こうして日本は韓国を保護国とした。
これに対して韓国は1907(明治40)年6月、ハーグの万国平和会談に皇帝の密使を送って抗議したが、入れられなかった(ハーグ密使事件)。日本政府はこの事件をきっかけに、同年7月、韓国皇帝を退位させ、第3次日韓協約を結んで、その内政権を奪い、韓国の軍隊を解散させた。韓国内にはこれに反対して反日武装闘争の気運が活発化し、解散された軍隊も加わり義兵運動が高まったが、日本は軍隊を出動させてその鎖圧にあたった。1909(明治42)年10月、伊藤がハルビンで韓国の民族運動家安重根(アンチュングン 1879〜1910)に暗殺されると(伊藤博文暗殺事件)、日本は翌1910(明治43)年8月、ついに韓国併合を強行して韓国を植民地とし、その名称を朝鮮に、漢城を京城と改めて天皇直属の朝鮮総督府をおいてその統治にあたった。
62.アジア諸国の改革と民族運動
日露戦争と日本の韓国併合
義和団鎮圧を口実に中国東北地方に大軍を送ったロシアは、事件後も撤退せず、さらに朝鮮への圧力を強めた。ロシアの進出を警戒する日本は、同様に脅威を感じたイギリスと1902年日英同盟を結んで対抗した。日本はアメリカ・イギリスの援助を受けて対ロシア強硬策をとり、1904年に日露戦争を開始し、翌05年にポーツマス条約を結んだ。この条約により、日本は韓国の指導・監督権等を得、3次にわたる日韓協約を結んで韓国の実質的支配を進めた。これに対し、韓国では激しい武装抗日闘争(義兵闘争)がおこった。しかし日本は、列強の黙認のもと、これを弾圧し、1910年に韓国を併合して日本の領土とした。