呉
呉
222〜280年。三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝。姓は孫氏。首都は建康(けんこう)。(現在の南京付近)孫呉、東呉とも呼ばれる。
222年: 夷陵(いりょう)の戦い 蜀漢皇帝劉備率いる劉備軍。白帝城(はくていじょう) (中国奉節県の長江三峡)から夷道までの三峡全域。大勝し魏から独立。
孫権(そんけん): 君主
182〜252年。
父・孫堅(そんけん)亡き後、兄孫策(そんさく)も暗殺され、19歳で当主となる。孫策の盟友であった周瑜を都督(ととく)(称号)に迎え、赤壁の戦いで曹操の大群に勝利する。
222年に呉を建国。229 年に皇帝の座に就いた。
孫小妹(そんしょうめい)
生没年不詳。
孫策、孫権の異母妹。劉備を罠にかけるために、孫権が孫小妹との結婚を劉備に提案。しかし小妹は心から劉備を夫とすることを認め、嫁いでいく。やがて孫権と劉備の戦いが激化し、呉へと連れ戻される。
陸遜(りくそん)
183〜245年。
かつて孫氏と敵対していた陸氏の出だが、孫権に仕える身に。荊州(けいしゅう)(現在の湖北省の一帯に相当し、楚の古名もある)の関羽を油断させるための策として、呂蒙に変わって臨時大都督となり、関羽を撃破。呉へと進行してきた劉備と夷陵(いりょう)の戦いで相対する。
呂蒙(りょもう)
178年〜219年。
若くして孫策の代から仕え、孫権の代になっても周瑜の元で赤壁の戦いなどで功績を挙げる。魯粛(ろしゅく)にも認められ魯粛亡き後は後任となって兵を率いる。孫権に荊州を奪うべきだと進言し、関羽と激突する。
韓当(かんとう)
孫堅・孫策・孫権に仕え、孫堅の仇、黄祖との戦いで活躍する。
周瑜(しゅうゆ): 軍師
175年〜210 年。
字は公瑾(こうきん)。若き日に同い年の孫策と出会い、固い絆を結ぶ。孫策亡き後は、孫権の配下となり、軍を指揮。赤壁の戦いを勝利に導くが、それを機に、共に戦った諸葛亮を危険視するようになる。
孫策(そんさく)
175年〜200年。
孫堅の長男。父を亡くした後、袁術から自立。江東を制覇するが、26歳の時に暗殺される。
孫堅(そんけん)
156〜192年。
孫策、孫権の父。黄巾の乱などを鎮圧して名をあげる。反董卓連合軍の中心人物として活躍する。
黄蓋(こうがい)
生没年不詳。
孫堅亡き後、若い孫策、孫権を支えた老将。赤壁の戦いでは「苦肉の策」の語源となる作戦を実行。
魯粛(ろしゅく):軍師
172年〜217年。
豪族の家に生まれ、周瑜を援助したことが縁で軍師となる。外交手腕に優れ、劉備との同盟を実現。
程普(ていふ)
孫堅配下の武将として董卓との戦いで活躍。呉軍の長老的存在。