アウグスティヌス
アウグスティヌスの肖像画 (フィリップ・ド・シャンパーニュ画/17世紀/ ロサンゼルス郡美術館蔵)©Public Domain

アウレリウス・アウグスティヌス


アウレリウス・アウグスティヌス A.D.354〜A.D.430
古代キリスト教最大の神学者。北アフリカのヌミディア出身。カルタゴで弁論術を学んだ後、善悪二元論のマニ教に傾倒するが、ミラノ司教アンブロシウスに師事して回心する。アフリカ帰国後、聖職についてヒッポの司教となり、キリスト教の神学を究めた。著書に『神の国』『告白録』など。その思想は中世の「スコラ哲学」への道をつくり、西洋哲学に多大な影響を与えた。

アウレリウス・アウグスティヌス

古代キリスト教最大の神学者

北アフリカのヌミディア出身。カルタゴで弁論術を学んだ後、善悪二元論のマニ教に傾倒するが、ミラノ司教アンブロシウスに師事して回心する。アフリカ帰国後、聖職についてヒッポの司教となり、キリスト教の神学を究めた。著書に『神の国』『告白録』など。

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カトリック教義の確立に多大な貢献をした教父

古代キリスト教会最大の教父(教会に公認された神学者)といわれたアウグスティヌスは、青年期は放蕩していたという。北アフリカ・ヌミディアのタガステで、ローマ帝国の官吏の子として生まれたアウグスティヌスは、頭脳明晰。カルタゴの学校に入学しても抜群の成績を修めたという。しかしその後の生活は乱れ、内面に潜む肉欲と理想の板挟みで、もがき苦しんだ。マニ教に帰依した時期もあったが、ミラノで教職に就いたことがきっかけで、ミラノの司教からキリスト教を学び、キリスト教への回心を決意した。

アフリカへ戻ると、自らも司教となり、キリスト教正統教義の一本化に力を注ぎ、カトリック教義の確立に貢献した。そしてローマ帝国を救うのは神であると、普遍史の大薯『神の国』で説き、自らのマニ教からの回心を『告白録』で綴り、話題を呼んだ。

アウグスティヌス
アウグスティヌス(サンドロ・ボッティチェッリ画/Ognissanti, Florence蔵)©Public Domain

アウグスティヌスはプラトン主義(ネオプラトニズム)のキリスト教化に努め、その思想は中世の「スコラ哲学」への道をつくり、西洋哲学に多大な影響を与えた。

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ヨーロッパ世界の形成と発展

ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパの中世文化

学問と大学
神学

中世の学問を代表するのが神学である。「哲学は神学のはしため」ということわざが象徴するように、中世には古代に学問の中核を占めた哲学よりも、キリスト教の教理や信仰を研究する神学の方が上位を占めた。古代のラテン語神学は、5世紀初めの教父アウグスティヌスにより大成されたが、中世の神学はアウグスティヌスの思想を基盤に、スコラ学として発展した。スコラとは学校の意味で、フランク王国カール大帝がアーヘンの宮廷や教会・修道院などに付属の学校を建て、アルクィン(735〜804)ら諸国の学者を集めて学問を奨励したことに始まる。スコラ学は11世紀のカンタベリ大司教アンセルムス(1033〜1109)を経て、13世紀にドミニコ派のトマス・アクィナス(1225頃〜1274)により大成された。トマスは、アリストテレス哲学を踏まえ、神学を中心にあらゆる学問の体系化を目指し、『神学大全』を著した。

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オリエントと地中海世界

古代オリエント世界

パルティアとササン朝の文化

ササン朝になると、民族宗教のゾロアスター教が国教とされ、経典『アヴェスター』が編纂されるなどして、アケメネス朝以来のイランの文化的伝統が復活した。しかし一般に王たちが民間の宗教には寛容であったため、国内には仏教徒やキリスト教徒、それにユダヤ教徒もかなりいた。
3世紀にはゾロアスター教・キリスト教・仏教などを組み合わせた独自の救済宗教(マニ教)がマニによって創始された。この宗教はやがて国内では異端として弾圧されたので、地中海世界や中央アジア(とくにウイグル人によって信仰された)、さらには中国(唐)へも伝わった。

北アフリカでは青年期のアウグスティヌス(のちの教父)が思想的影響をうけた。また南フランスのキリスト教の異端アルビジョワ派にも、マニ教の影響が認められるという。

近代ヨーロッパの成立

宗教改革

ルターの改革

マルティン・ルター(1483〜1546)はザクセンのアイスレーベンに生まれ、代々農家であったが、父は成功をおさめた鉱山業者であった。父の希望でエアフルト大学の法学部に進んだが、信仰にめざめ、厳格さで知られるアウグスティヌス修道会(聖アウグスチノ修道会)に入り、神学研究を深め、ヴィッテンベルク大学の神学教授となった。彼のキリスト教信仰に対する解釈や立場は、「塔の体験」と呼ばれるその激しい内面のドラマと深く関連するが、1517年、ヴィッテンベルク城内教会の扉にはりだされた九十五カ条の論題(意見書)で、贖宥状しょくゆうじょう(免罪符)販売に対する批判としてまず表現された。ルターは贖宥状の購入が救済になんら意味がないこと、信仰によってのみ救われることを主張したのである。

参考 詳説世界史研究

387年、母モニカがオスティアで没した後、アフリカに帰り、息子や仲間と共に一種の修道院生活を送ったが、この時に彼が定めた規則は「アウグスティヌスの戒則」と言われ、キリスト教修道会規則の一つとなった(聖アウグスチノ修道会は、アウグスティヌスの定めた戒則を基に修道生活を送っていた修道士たちが13世紀に合同して出来た修道会である)。

参考 Wikipedia

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