アクスム王国 (紀元前後〜9世紀頃) 紀元前後、エチオピアにおこった王国。メロエ王国を滅ぼし、インド洋貿易に活躍。最盛期にはイエメンに進出。アクスム王国は1世紀中ごろの作と思われる『エリュトラー海案内記』に、初めてその名が現れる。3世紀にはアラビア南西部にまで勢力をのばし、紅海の制海権を握ったあと、インド洋でギリシア系ローマ商人が撤退したあとの商権を巡ってササン朝のペルシア商人とアクスム商人が争った。4世紀半ばにコプト派のキリスト教を受容した。
目次
アクスム王国
首都:アクスム(ゲエズ語) メロエ王国(クシュ王国のメロエ遷都後の国)を滅ぼし、インド洋貿易に活躍、最盛期にはイエメンに進出。4世紀半ばにコプト派のキリスト教を受容した。イスラーム世界の形成と発展
インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
アフリカのイスラーム化
アフリカの内陸部は、北部の砂漠地帯とニジェール川やザンベジ川など大河流域の熱帯雨林を除いて、大半はサバンナ気候帯に属する。ナイル川上流のスーダンには、紀元前10世紀ころにクシュ王国(紀元前920〜350)が成立し、紀元前8世紀には一時エジプトを支配するほどの勢いを示したが、アッシリアの侵入(紀元前667)によってナイル川上流域に後退した。これ以降メロエに都をおいた時代(紀元前670頃〜350頃)に、王朝は鉄器の製造とエジプトとの通商によって栄え、メロエ文字(未解読)を用いた。しかし4世紀になると、エチオピアに興ったアクスム王国(紀元前後〜9世紀)に滅ぼされた。西アフリカのガーナ王国(7世紀頃〜1150)は、金を豊富に産することで知られていた。ムスリム商人は、サハラ砂漠の塩床から切り出した岩塩をもってガーナにいたり、これを金と交換してイスラーム世界にもたらした。この交易によって王国は繁栄を続けたが、1076/1077年、モロッコのムラービト朝の攻撃を受けて衰退した。

オリエントと地中海世界
古代オリエント世界
ササン朝
ササン朝は、東西交易の利益の独占をねらって、海陸で積極的な政策がとられた。ペルシア湾からインドにいたる航路は整備され、インド洋ではギリシア系ローマ商人が撤退したあとの商権を巡ってペルシア商人とエチオピアのアクスム商人が争った。アクスム王国は3世紀にはアラビア南西部にまで勢力をのばし、紅海の制海権を握ったあと、インドへの進出をはかっていたのである。他方、陸上ではハトラをはじめとする隊商都市が相次いで征服され、次の世紀に入ると、隊商路を脅かすアラブ遊牧民を討伐するため、アラビア半島内部にまで遠征が行われるようになった。アクスム王国は1世紀中ごろの作と思われる『エリュトラー海案内記』に、初めてその名が現れる。
ペルシア商人とアクスム商人
6世紀の東ローマ帝国の歴史家・プロコピオスの伝えるところによると、ササン朝をつうじて、シルク・ロード経由で中国の絹を入手することを嫌ったユスティニアヌス帝は、同盟国のアクスム王国の王に、インド経由で絹を輸入してくれるよう依頼した。しかしその当時インド西岸の諸港においては、ペルシア商人の勢力がアクスム商人のそれを上回っていたため、絹はペルシア商人によって買い占められ、ユスティニアヌスは海路によって絹を入手することができなかったという。エジプト統一王国の形成と展開
エジプト末期王朝時代
クシュ人
現在のスーダンにあたるナイル川の中流域では、ナイル川の水を利用して古くから農業が行われ、またすでに古王国時代のエジプトとも交易を通じて交流があった。紀元前10世紀の後半になって、アフロ・アジア語系黒人のクシュ人がナパタを中心に王国をたてた。クシュ王国とも呼ばれるこの王国は、紀元前8世紀にはエジプトに進出し、アッシリア軍の侵入をうけて撤退するまで1世紀近くここを支配した(第25王朝)。その後も首都をナパタから南のメロエに移して存続したが、紀元前後より周辺の遊牧民やエチオピアのアクスム王国に圧迫されて弱体化した。
ついに4世紀前半に後者の攻撃を受けて滅亡した。アフリカ奥地やインド洋とエジプトを結ぶ交易の中継地として繁栄し、エジプトから学んだ製鉄技術をさらに奥地の黒人アフリカ社会に伝えた。ナパタやメロエには、現在でも神殿やピラミッドの遺跡が残り、このアフリカ最古の黒人王国が到達した文化の高さを示している。

参考
文化

参考 Wikipedia