アショーカ王
アショーカ王のレリーフ @Wikipedia
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アショーカ王 またはアショカ (阿育王) 在位:紀元前268年頃 – 紀元前232年頃

マウリヤ朝第3代王(在位紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)。チャンドラグプタの孫。マウリヤ朝の全盛期を築き、全インドをほぼ支配。強国カリンガを征服した際、数十万人の犠牲者を出したことを深く後悔して、征服戦争ではなく、ダルマ(法)に基づく政治を行うことを決意。これと前後して仏教に帰依した。ダルマの政治の内容を詔勅しょうちょくとして発布し、各地の岩石に刻ませた。

アショーカ王

暴虐な君主が仏教の保護者に

インド・マウリヤ朝第3代王(在位紀元前268年頃 - 紀元前232年頃)。強国カリンガを征服した際、数十万人の犠牲者を出したことを深く後悔して、征服戦争ではなく、ダルマ(法)に基づく政治を行うことを決意。これと前後して仏教に帰依した。ダルマの政治の内容を詔勅しょうちょくとして発布し、各地の岩石に刻ませた。

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戦争を悔い、仏教を保護

チャンドラグプタの孫でマウリヤ朝第3代王。王朝の全盛期を築き、全インドをほぼ支配。征服戦争の悲惨さを悔い、熱心な仏教徒となる。仏典の編纂、仏塔の寄進等を行った。人間の守るべき法を「ダルマ」と呼び布教。病院や道路の建設事業にも尽力した。

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アジア・アメリカの古代文明

インドの古代文明

マウリヤ朝の成立

マウリヤ朝は第3代のアショーカ王(前268〜前232)の時代に全盛期を迎えた。アショーカ王は即位後8年に半島東岸のカリンガ国を征服し、その結果マウリヤ帝国の領域は半島南端部をのぞく亜大陸全域におよぶことになった。しかしアショーカ王はこのときの惨状をみて後悔し、仏教への信仰を深めるとともに、武力を放棄し、万人の守るべき理法(ダルマ)による統治を理想として掲げるにいたった。そして、その理想を詔勅しょうちょく(法勅)として発布し、領内各地の岩石(摩崖まがい)や石柱に刻ませ、さらに南東南端部や地中海方面にまで使節を派遣してその理想を伝えた。王はまたダルマの政治の一環として道路を整備し、人畜の病院をたてるなど社会事業にも力を注いだ。

アショーカ王法勅はギリシア文字を含む4種類の文字で刻まれているが、そのうちのブラフミー文字は、今日のインド・スリランカ・ミャンマー・タイ・チベットで使われている文字の祖形である。
マウリヤ朝時代のインド地図
マウリヤ朝時代のインド地図 ©世界の歴史まっぷ

ブッダの死後に発展を続けてきた仏教は、アショーカ王の保護下に亜大陸の辺境地まで伝えられた。アショーカ王はまた多数の仏塔(ストゥーバ)を建立し、第3回の仏典結集を援助したといわれる。スリランカに仏教が伝わったのもこの時代であった。同島の伝説によると、このとき仏教を伝えたのはアショーカの王子マヒンダであったという。スリランカはこれ以後、上座部(テーラヴァーダ)と呼ばれる部派の根拠地となった。この部派の仏教は、のちに東南アジアへも伝えられ、今日にいたっている。

アショーカの死後マウリヤ朝は衰退に向かい、紀元前180年ころシュンガ朝(〜紀元前68)にとってかわられた。マウリヤ朝時代にガンジス川流域の先進文化は亜大陸の各地に伝えられ根を下ろした。そしてマウリア朝崩壊後、それらの地方において、経済的・文化的発達を背景にいくつかの有力国家が興った。

マウリヤ朝の成立 – 世界の歴史まっぷ

参考

詳説世界史研究

カリンガ戦争

紀元前265年頃、古代インドにおいて、マガダ国マウリヤ朝のアショーカ王が、カリンガ国を征服するために行った戦争。侵略されたカリンガ国(主に現在のオリッサ州)が戦地となった。マガダ国マウリヤ朝が勝利し、カリンガ国はマウリヤ朝に服属したが、凄惨を極めた戦いで、戦場となったダヤー川の下流は、戦闘による人血によって真っ赤に染まったという。カリンガ国民は100,000人が死亡し、マウリヤ朝軍も10,000人の死者を出したとされる。戦後に刻まれたアショーカ王碑文によると、アショーカ王はこの戦いによって戦争の悲惨さを痛感したとされ、戦後に不殺生・不戦を誓い、より深く仏教に帰依した。

アショーカ王
紀元前265年頃のカリンガ国 ©Public domain
アショーカ王
265年 アショーカ王の頃の版図 Source: Wikipedia

アショーカ王碑文

アショーカ王碑文とは、紀元前3世紀にアショーカ王が石柱や摩崖(岩)などに刻ませた詔勅である。アショーカ王の法勅ほうちょくとも呼ぶ。現在のインド・ネパール・パキスタン・アフガニスタンに残る。インダス文字を別にすれば、アショーカ王の法勅はインドに現存する文字資料のうちほぼ最古のものであり、言語学的・歴史的・宗教的な価値がきわめて大きい。マウリヤ朝は南アジアの広い地域を征服したが、アショーカ王はカリンガ戦争で多くの犠牲を出したことを反省し、仏法のためにつとめるようになった。自分の子孫が同じあやまちをおかさないようにするために、法勅を領内各地の岩や石柱に刻んだ。

王である自らが仏法を重んじ、動物の犠牲を減らすこと、薬草を備えたり木を植えるなどのつとめに励むことなどを記している。一般に対して要求する法としては、父母の言うことを聞き、師やバラモン・沙門を敬い、真実を語り、生き物を大切にするなど、ごく一般的な教えを述べている。また他の宗教を非難することを戒めている。

碑文の置かれている場所は古代の通商路や巡礼地に一致するという。

アショーカ王 インドの古代文明
アショーカ王の石柱頭(サールナート出土) ©Public domain

この4頭の獅子からなる柱頭をもとにインドの国章がデザインされた。

ブッダガヤの大菩提寺

ブッダガヤの大菩提寺の菩提樹の下にはアショーカ王が寄進したとされる金剛宝座こんごうほうざと、それらを囲む「欄楯らんじゅん」と呼ばれる石造の欄干らんかんがある。欄楯には仏教説話をテーマとした精緻な浮彫が施されている。
ブッダガヤの大菩提寺 – 世界の歴史まっぷ

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