アッティラ
アッティラ の饗宴(タン・モル画/ハンガリー国立美術館蔵/1870年) ©Public domain
Previous Post

Next Post

アッティラ Attila A.D.406〜A.D.453

5世紀半ば頃にフン人を統合した王(在位433〜453)。現在のハンガリーにあたるパンノニア平原を根拠地に、東欧に広大な勢力圏を築いてビザンツ帝国を圧迫した。カタラウヌムの敗戦後もイタリアに侵攻したが、教皇レオ1世の調停を受け入れて帰還する途中に急死した。

アッティラ

5世紀半ば頃にフン人を統合した王(在位433〜453)。現在のハンガリーにあたるパンノニア平原を根拠地に、東欧に広大な勢力圏を築いてビザンツ帝国を圧迫した。カタラウヌムの敗戦後もイタリアに侵攻したが、教皇レオ1世の調停を受け入れて帰還する途中に急死した。

created by Rinker
¥1,380 (2024/11/21 03:42:22時点 Amazon調べ-詳細)
ASIN: 4634033046

西欧人の記憶に残る恐怖

フン族全盛期の王。現在のハンガリーを中心に、カスピ海からライン川にいたる地域を征服。
西ローマ帝国を脅かした。東ローマ帝国に侵入し、皇帝から賠償金を得たが、西進して連合軍に敗れた。北イタリアに転戦したが、ローマ教皇レオ1世の説得で退去。結婚の翌時に急死し、帝国は崩壊した。

created by Rinker
¥378 (2024/11/20 22:14:12時点 Amazon調べ-詳細)
ASIN: 4791620615
アッティラ
アッティラ の饗宴(タン・モル画/ハンガリー国立美術館蔵/1870年) ©Public domain

迅速果敢な攻撃で恐れられたフン族国王

ゲルマン諸民族を支配下に置き、帝国領で猛威を振るったフン族の王アッティラ。451年、ガリアに侵入しカタラウヌムの戦いで敗退。翌年、アルプスを越えて北イタリアに。だがレオ1世(ローマ教皇)の説得で撤退を始める。その直後に急死すると、王国は解体した。

created by Rinker
¥800 (2024/11/20 22:28:44時点 Amazon調べ-詳細)
ASIN: 4418122362

ヨーロッパ世界の形成と発展

ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ世界の成立

ゲルマン人の大移動とフン人
ヨーロッパにおける民族大移動の始まり地図
ヨーロッパにおける民族大移動の始まり地図 ©世界の歴史まっぷ
アッティラ

生年は406年ころ。434年伯父のルア王の死後、兄弟のブレダとともに王に即位、445年ブレダを倒して独裁者となった。そして、またたくまにカスピ海からバルト海にいたる領土を支配下においた。その進撃ぶりにヨーロッパ社会は恐慌をきたし、彼はきわめて残忍な人物として、ヨーロッパ人に記憶されることになった。だが、それはあくまで誇張されたイメージであり、その生活ぶりは遊牧民らしく質素で、厳格なものであったと伝えられる。

ゲルマン人の大移動をひきおこした間接的要因は土地不足であったが、直接的要因はアジア系遊牧民フン族(フン人)の圧力であった。

フン人は、確証されてはいないものの、匈奴(北匈奴)との同族説が有力である。

フン族は4世紀後半に南ロシアのステップ地帯を西進し、黒海北岸に定住していた東ゴート人を服従させた(375)。西ゴート人はこれを逃れ、大挙ドナウ川を渡ってローマ領内に侵入し保護を求めた。この事件を契機に、以後2世紀間に及ぶゲルマン人の大移動が始まるのである。ローマは西ゴート人を帝国の同盟者として領内への定着を許し、西ゴートはローマの主権を認めて国境防衛の任についた。しかし、いったんは定着した西ゴートも、さらに条件のよい土地を求めて、第二、第三の移動をおこなった。その背景にはローマの支配力の低下がある。
ほどなくローマは東西に分裂し(395)、北辺の防備がおろそかになると、ヴァンダル・ブルグント・フランクなどの諸部族がライン川を超えてガリア地方に侵入した。こうして、民族移動は西ヨーロッパにも波及することになった。一方、ドナウ川中流のパンノニアに拠ったフン族は、アッティラ(位434〜453)の出現とともに急速に勢力を拡大し、一帯のゲルマン人やスラヴ人を従えて大帝国を建設した。
451年アッティラの軍が西ヨーロッパに侵入すると、西ローマ・西ゴート・ブルグント・フランクは連合して対抗し、カタラウヌムの戦いでこれを撃退した。アッティラは翌年さらにイタリアに侵入したが、レオ1世(ローマ教皇)との会見後撤退した。
フン帝国はアッティラの死後まもなく瓦解がかいするが、西ローマ帝国もそうした混乱の中で、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルにより滅ぼされた。

参考 詳説世界史研究

年表

フン族 アッティラ レオ1世 カタラウヌムの戦い
レオ1世(ローマ教皇)とアッティラの会見(ラファエロ・サンティ画/Stanza di Eliodoro, Palazzi Pontifici, Vatican蔵) ©Public domain
  • 434年、フン族・ルーア王が死去して、息子のブレダと甥のアッティラの兄弟が共同王位に就き、東ローマ帝国の貢納金を倍額にさせる有利な協定を結ぶ。
  • 440年、和平を破って東ローマ帝国へ侵入してバルカン半島一帯を侵略し、東ローマ帝国軍は敗退する。
  • 443年、皇帝・テオドシウス2世は莫大な貢納金の支払いを約束する条約の締結を余儀なくされる。
  • 445年頃、ブレダが死に、アッティラの単独統治となる。
  • 447年、アッティラは再び東ローマ領を侵攻して略奪を行い、東ローマ帝国軍を撃破する。
  • 451年、アッティラは西ローマ皇帝・ウァレンティニアヌス3世の姉ホノリアからの求婚を口実に、大軍を率いてガリアに侵入する。カタラウヌムの戦いでアッティラは、アエティウス将軍が率いる西ローマ=西ゴート連合軍に敗れ撤退するが、勝ったローマ軍も西ゴート王テオドリック1世が戦死するなど損害も多く、追撃はできなかった。
  • 452年、体勢を立て直したアッティラはイタリア半島に侵入して北イタリア各地を却略するが、教皇・レオ1世の説得により引き返す。パンノニアに帰還したアッティラは、再度の東ローマ帝国侵攻を企図する。
  • 453年、自身の婚礼の祝宴の席で死亡する。ヨーロッパでは、ローマ教皇の忠告を守らなかったアッティラに神の天罰が下り死亡、残された部下は天罰を恐れ、ローマ教皇の忠告を守り、夕日を背にして生まれ故郷の東方に帰っていった、という非常に有名な伝承が残っている。この事件をキリスト教が布教活動に利用、ヨーロッパでその後1,000年近く続く、王や諸侯よりも強大なキリスト教の権威が生まれるきっかけになったとされる。

アッティラの死後のフン族

  • アッティラの死後、息子のエラクが兄弟のデンキジック、イルナックとの後継者争いに勝ってフン族の王となる。
  • 454年、フン族の従属部族たちがゲピド族長の元に集結、ネダオ川でフン族に挑んだ(ネダオ川の戦い)。フン族が敗れ、エラク王も戦死したことによりヨーロッパにおけるフン族の覇権は終わり、それからほどなくして同時代の記録から彼らは消え失せた。
  • パンノニア平野は東ゴート族にトランシルヴァニアはゲピード族に占領され、その他の諸部族も中央ヨーロッパ各地に割拠した。

参考 Wikipedia

関連映画

created by Rinker
アルバトロス (映像)
¥3,602 (2024/11/20 20:55:37時点 Amazon調べ-詳細)
ASIN: B001SSXXV6
広告
Previous Post

Next Post