アメリカ独立戦争 (A.D.1775〜A.D.1783) 北アメリカの13植民地がイギリス本国の重商主義政策に対して自治権を求め、独立を獲得した戦争。1775年の武力衝突に始まり、1776年独立宣言、ヨーロッパ諸国、特にフランスの支援を得てイギリス軍を破り、1783年のパリ条約で独立が承認された。
アメリカ独立戦争
参考 ブリタニカ国際大百科事典
戦争データ
年月日:1775年〜1783年 | |
場所:北アメリカ東部(現アメリカ合衆国とカナダ)、大西洋、地中海、カリブ海 | |
結果:パリ条約:アメリカ合衆国の独立(イギリスの敗北) | |
交戦勢力 | |
アメリカ合衆国(1776年7月4日以前は13植民地) バーモント共和国 フランス王国 スペイン帝国 ネーデルラント連邦共和国 オナイダ族 タスカローラ族 ポーランド志願兵 プロイセン王国志願兵 ケベック志願兵 マイソール王国 | グレートブリテン王国 ハノーファー選帝侯領 ロイヤリスト イロコイ連邦 ドイツ人傭兵隊 ヘッセン=カッセル方伯領 ヴァルデック侯国 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国 アンスバッハ侯領 |
指導者 | |
ジョージ=ワシントン ホレイショ・ゲイツ ジョン・ポール・ジョーンズ ナサニエル・グリーン ベネディクト・アーノルド ベンジャミン・リンカーン ジルベール・ド・ラ・ファイエット ロシャンボー伯 フランソワ・ド・グラス ピエール・アンドレ・ド・シュフラン ガルベス伯 ルイス・コルドバ・イ・コルドバ タデウシュ・コシチュシュコ シュトイベン男爵 ヨハン・ズートマン ハイダル・アリー ティプー・スルターン | ジョージ3世(イギリス王) ウィリアム・ハウ ヘンリー・クリントン チャールズ・コーンウォリス(捕虜) ジョン・バーゴイン(捕虜) バナスター・タールトン ベネディクト・アーノルド ジョセフ・ブラント ヨハン・ラール |
戦力 | |
アメリカ軍 250,000名 フランス軍 15,000名 スペイン軍 8,000名 総計: 273,000名 | イギリス軍 12,000名 ロイヤリスト 50,000名 ドイツ人傭兵 40,000名 インディアン 5,000名 総計: 107,000名 |
参考 Wikipedia
欧米における近代社会の成長
アメリカ独立革命
七年戦争後の植民地と本国の対立
本国は植民地を原料供給地・市場にとどめ、本国の産業や貿易を保護しようとする重商主義政策を実地した。1651年の航海法( ピューリタン(清教徒)革命)をはじめ、1699年の毛織物法、1732年の帽子法、1733年の糖蜜法、1750年の製鉄品法などは、本国の貿易・産業、英領西インド諸島の産品などを保護するために、植民地の自由な貿易や製造業に規制を加えたものであった。 しかし、七年戦争終結までは、植民地をフランスやインディアンの攻撃から守るため、植民地自身にある程度の自衛力をつけさせる必要があった。そのため、これらの重商主義的規制を厳格には適用しないことがかえって「有益なる怠慢」とされてきた。 七年戦争終結後、フランス勢力を排除した本国政府は、植民地に対する統制を強化しはじめた。インディアンとのトラブルを避けるため植民地人の行動を抑え、また財政難から戦費・植民統治費の一部を植民地に負担させるということで、課税の強化をはかったのである。1763年に設けられた国王宣言線は、植民地人のアパラチア山脈以西の移住を禁じ、1764年の砂糖法は、外国領から輸入される砂糖の課税を強化した。
独立戦争の開始と独立宣言
1775年4月、本国軍と植民地民兵の最初の武力衝突がボストン郊外のレキシントンとコンコードでおこった(レキシントン・コンコードの戦い)。植民地側の武器弾薬庫の接収にむかった本国軍と、ミニットマンと呼ばれる現地住民の民兵の衝突であった。 この直後の5月、第2回大陸会議がフィラデルフィアで開かれ、大陸軍が組織され、ジョージ=ワシントン(1732〜1799)が最高司令官に任命された。レキシントン・コンコードの戦い
アメリカ独立戦争の発端となったのが1775年4月18日、ボストン郊外のレキシントンとコンコードで、植民地人が redcoats と呼んでいたイギリス正規軍と植民地人のミニットマンの間でおこった武力衝突である。コンコードの農民がひそかに火器を貯えているとの情報をえたイギリスのゲージ将軍が、その軍事品貯蔵庫を破壊するため、700人の部隊を派遣した。レキシントンではこれに対抗しようとした植民地人の一団と小競り合いがあり、コンコードで捜索を済ませて帰るイギリス軍に植民地側のミニットマンがゲリラ的銃撃を浴びせたのである。この事件でどちらが先に発砲したかは明らかではない。しかし、植民地側のニュースはいちはやく、衝突はイギリス側が仕掛けたものとした。イギリス軍の残虐行為とイギリスに反抗した人々の「英雄的な戦い」がことこまかに語り伝えられ、植民地民衆の心を奮い立たせたのである。ニュースは植民地側の連絡網をつうじて流布された。すでに、植民地側のプロパガンダの環を広げるため、各地に「通信連絡委員会」が設立されていた。
イギリスでコルセット職人の子として生まれ、職業を転々としたのち、フランクリンのすすめでアメリカに渡った。
アメリカ独立宣言(抜粋)
我々は次のことが自明の真理であると信ずる。すべての人は平等につくられ、造化の神によって、一定の譲ることのできない権利を与えられていること。そのなかには生命、自由、そして幸福の追求が含まれていること。これらの権利を確保するために、人類の間に政府がつくられ、その正当な権力は被支配者の同意にもとづかねばならない。もしどんな形の政府であってもこれらの目的を破壊するものになった場合には、その政府を改革しあるいは廃止して人民の安全と幸福をもたらすにもっとも適当と思われる原理にもとづき、そのような形で権力を形作る新しい政府を設けることが人民の権利であること。異常である・・・・・・現在のイギリス王の歴史はたび重なる侮辱と権利侵害の歴史である。すべては、わが諸州の上に絶対専制政治をうちたてることを直接目的としているのである。以上のことを立証するために、公正な世界にむかってあえて事実を提出する。戦争の経過とパリ条約
ジョージ=ワシントンの率いる大陸軍は、数万のイギリスの正規軍を相手に苦戦を続けた。植民地兵は勇敢ではあったが、正規の軍事訓練をうけていなかった。将校たちの指揮経験も少なく、いくつかの先頭で敗北を続けた。しかし彼らは敗北から学ぶ能力をもっていた。 1777年、植民地軍はサラトガの戦いでイギリス軍に大きな勝利をおさめた。装備、訓練で劣っていた大陸軍に海外からフランスの若き貴族ラ・ファイエット、ドイツの軍人フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン、ポーランドの愛国者コシューシコ(タデウシュ・コシチュシュコ ポーランド分割)などが義勇兵として参加した。シュトイベン男爵は厳しい規律できたえられたプロイセン軍の将校で、アメリカ兵のための軍事教練の教則書をつくり、実戦にも参加した。 フランスとの同盟のため、大陸会議から代表としてフランスに派遣されていたベンジャミン=フランクリン(1706〜1790)は、フランス人の間に非常に人気があった。彼の人気に加え、七年戦争敗北以来イギリスに報復の機会をねらっていたフランス政府は、参戦には慎重であったが、ひそかに金銭的援助や物資補給で植民地の支援を続けていた。サラトガの勝利の報せは、このフランス政府を参戦にふみきらせた。1778年、フランスは合衆国と和親・通称の条約を結び、正式にその独立を承認し、軍事同盟に同意し、イギリスに宣戦を布告した。こうしてフランスの陸海軍が戦争に加わることになった。翌年、フロリダ回復をねらっていたスペインもフランスの同盟国として対英宣戦をおこなった。また、イギリス海軍が大陸への援助を妨害したことから、1780年、ロシアのエカチェリーナ2世の提唱でヨーロッパ諸国の参加する武装中立同盟がつくられ、イギリスは国際的にも孤立した。 1781年、ヨークタウンで大陸軍とフランス陸海軍は、チャールズ・コーンウォリスの率いる7000のイギリス軍を包囲、降伏させた(ヨークタウンの戦い)。戦争は事実上、植民地の勝利というかたちで終結した。本国では強硬派のトーリ党内閣にかわり、穏健派のホイッグ党内閣が成立し、1782年仮講和条約が結ばれた。 1783年、植民地と本国の間にパリ条約(1783)が締結され、アメリカ合衆国は独立を承認されたばかりでなく、13の植民地の面積をうわまわるミシシッピ川以東の広大な土地を割譲された。参考