アンセルムス( A.D.1033〜A.D.1109)
カンタベリー大司教、教会博士、スコラ学者。教皇の大司教任命権を主張して追放となり、ヘンリー1世(イングランド王)の招きで復位。王の高位聖職者の任命権を否定するなど、独自の説を唱えた。スコラ学の普遍論争では「理解せんがために我れ信ず」として実在論の立場に立って唯名論に反論。「スコラ哲学の父」とよばれる。
アンセルムス
スコラ哲学の父
神の存在を理性的にとらえようとした初期スコラ学者。1093年から亡くなるまでカンタベリー大司教の座にあったが、教皇の大司教任命権を主張して、一時追放となり、ヘンリー1世(イングランド王)の招きで復位。王の高位聖職者の任命権を否定するなど、独自の説を唱えた。
理性的、学術的に神を把握した
カンタべり大司教・スコラ哲学者。「神は人間の内にあるだけではなく実際に存在する」という本体論的存在証明を行う。スコラ学の普遍論争では「知らんがために信じる」として実在論の立場に立って唯名論に反論。「スコラ哲学の父」とよばれる。
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパの中世文化
学問と大学
中世の学問を代表するのが神学である。「哲学は神学の婢」ということわざが象徴するように、中世には古代に学問の中核を占めた哲学よりも、キリスト教の教理や信仰を研究する神学の方が上位を占めた。古代のラテン語神学は、5世紀初めの教父アウグスティヌスにより大成されたが、中世の神学はアウグスティヌスの思想を基盤に、スコラ学として発展した。スコラとは学校の意味で、フランク王国のカール大帝がアーヘンの宮廷や教会・修道院などに付属の学校を建て、アルクィン(735〜804)ら諸国の学者を集めて学問を奨励したことに始まる。スコラ学は11世紀のカンタベリ大司教アンセルムス(1033〜1109)を経て、13世紀にドミニコ派のトマス・アクィナス(1225頃〜1274)により大成された。トマスは、アリストテレス哲学を踏まえ、神学を中心にあらゆる学問の体系化を目指し、『神学大全』を著した。
中世のスコラ学において最大の課題とされたのが、神や普遍の実在をめぐる実在論と唯名論(名目論)との普遍論争であった。
アンセルムスに代表された実在論(普遍の実在を認める立場)は、「理解せんがために我れ信ず」として理性の上に信仰を置いたが、フランスのピエール・アベラールに代表される唯名論(実在するのは個物であり、普遍は名目にすぎないとする立場)は、「信ぜんがために理解す」として信仰よりも理性が先立つことを主張し、教会から異端視された。トマス・アクィナスは穏やかな実在論の立場をとり、普遍は知性の所産であるとともに実在に対応するとして、信仰と理性の統一をはかった。だが、その後、唯名論が有力となり、フランチェスコ派のヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(1266〜1308)やウィリアム・オブ・オッカム(オッカムのウィリアム)(1290〜1349)により、信仰と理性は調和しないとして両者の区別・分離が主張されるにおよび、スコラ学はしだいに衰退にむかった。
参考 詳説世界史研究