アンボイナ事件
1623年、モルッカ諸島の香辛料獲得をめぐるオランダとイギリスの抗争がアンボイナ島で事件をひきおこした。イギリス商館の日本人傭兵がオランダ商館の様子を探っていたとして、オランダ商館長はイギリス商館員全員を捕らえ拷問、陰謀の自供を引き出して処刑した。イギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名が処刑された。この事件以後、イギリスはこの地を去りインド経営に専念するようになった。
アンボイナ事件
1623年、モルッカ諸島の香辛料獲得をめぐるオランダとイギリスの抗争がアンボイナ島で事件をひきおこした。イギリス商館の日本人傭兵がオランダ商館の様子を探っていたとして、オランダ商館長はイギリス商館員全員を捕らえ拷問、陰謀の自供を引き出して処刑した。イギリス人10名、日本人9名、ポルトガル人1名が処刑された。この事件以後、イギリスはこの地を去りインド経営に専念するようになった。
事件後
この事件は程なくイギリス本国に伝わり、英蘭両国の間で進行していた東インド会社の合併交渉は決裂、ついには外交問題にまで発展した。事件発生から実に31年後の1654年、オランダ政府が8万5000ポンドの賠償金を支出することで決着した。
事件をきっかけに、東南アジアにおけるイギリスの影響力は縮小し、オランダが支配権を強めた。しかし、かつて同量の金と交換されたこともあったほどの高級品だった香料の価格は次第に下落。それに伴い、オランダの世界的地位も下がり始めた。対して、新たな海外拠点をインドに求めたイギリスは、良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させた。
参考 Wikipedia
ヨーロッパ主権国家体制の展開
ヨーロッパ諸国の海外進出
オランダ東インド会社の活動
この会社は、本国オランダではアムステルダムの有力商人を中心に「十七人会」と呼ばれた重役会議によって運営され、会社の活動はバルト海貿易とならぶオランダの繁栄の象徴ともなった。アジアでは、香料の直接生産地にあたるインドネシアに力を注ぎ、ジャワのバンタム(現ジャカルタ)を拠点とした。ここにバタヴィア城を築き、ついで現地の支配者やアンボイナのポルトガル人と対抗しつつ、ティドール、テルナーテなどをつぎつぎと占領し、1641年には、ついにマラッカをも占領した。
こうして、香料の原産地を押さえたオランダ東インド会社は、伝統的なアジアの流通経路に入りこんだだけのポルトガルとは違って、香料をほとんど完全に独占した。この会社はまた、後続のイギリスをの他の国の会社にくらべても、圧倒的な資本力を誇ったうえ、インドネシアへの植民計画を進めた初期の総督、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(1587〜1629)の活躍などもあって、その勢力はたちまち拡大した。
1623年には、イギリス人のいう「アンボイナ虐殺事件」によって、インドネシア水域からイギリス人を追放することにも成功した。
そのうえ、1652年にはアフリカ南端にケープ植民地を創設して、ヨーロッパとアジアを結ぶインド航路の主導権も握った。この地に住みついたオランダ人は、ブール(オランダ語で「農民」の意味)人と呼ばれた。