イギリス公使館焼打ち事件 A.D.1862〜
高杉晋作・井上馨、伊藤博文ら約10人が、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を襲撃して全焼させた事件。
イギリス公使館焼打ち事件
高杉晋作ら約10人が、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を襲撃して全焼させた事件。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
開港とその影響
また、金銀の交換比率が、外国では1:15、日本では1:5と著しい差があったため、外国人は銀貨を日本にもち込んで日本の金貨を安く手に入れ、その差額で大きな利益を得ようとした。そのため、10万両以上の金貨が海外に流出した。幕府は金貨の品位を大幅に引き下げた万延小判を鋳造してこの事態を防ごうとしたが、貨幣の実質価値が下がったため物価上昇に拍車をかけることになり、下級武士や庶民の生活は著しく圧迫された。そのため貿易に対する反感が高まり、反幕府的機運とともに激しい攘夷運動がおこる一因となった。そして、外国人を襲う事件が相つぎ、1860(万延元)年、ハリスの通訳であったオランダ人ヒュースケン(Heusken, 1832〜61)が江戸の三田で薩摩藩の浪士に斬り殺され、さらに翌年、高輪東禅寺のイギリス仮公使館が水戸脱藩士の襲撃を受け館員が負傷した東禅寺事件、1862(文久2)年には、神奈川宿に近い生麦村で、江戸から帰る途中の島津久光(1817〜87)の行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬った生麦事件、さらに同じ年の暮れ、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を高杉晋作(1839〜67)·久坂玄瑞(1840〜64)らが襲って焼いたイギリス公使館焼打ち事件などがおこっている。生麦事件は、のちに薩英戦争の原因となった。1861(文久元)年には、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に停泊し、租借地を要求する対馬占拠事件がおこった。対馬の半植民地化の危機に島民が激しく抵抗し、イギリスの抗議もありロシアは退去した。
幕府は、このような開港による物価謄貴と攘夷運動を恐れ、安政五カ国条約に盛り込まれた江戸・大坂の開市と兵庫・新潟の開港期日の延期を交渉するため、1862(文久2)年に遣欧使節を派遣し、イギリスとロンドン覚書を結ぶなどして、開市・開港を延期した。
襲撃者
- 隊長:高杉晋作
- 副将:久坂玄瑞
- 火付け役:井上馨、伊藤博文、寺島忠三郎
- 護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵
- 斬捨役:赤根武人、白井小助、山尾庸三ら
参考 Wikipedia