イタリア統一戦争 (1859)
イタリア統一に関わるサルデーニャ王国の第2次の対オーストリア戦争。4月の開戦後、連勝するサルデーニャの強大化をおそれ、また戦争介入に対する国内での反対もあり、支援国フランスのナポレオン3世は7月にオーストリアと講和したため、サルデーニャはロンバルディアしか併合できず、ヴェネツィアは依然としてオーストリアに残ることになった。
イタリア統一戦争
イタリア統一に関わるサルデーニャの第2次の対オーストリア戦争。4月の開戦後、連勝するサルデーニャの強大化をおそれ、また戦争介入に対する国内での反対もあり、ナポレオン3世は7月にオーストリアと講和した。
欧米における近代国民国家の発展
ヨーロッパの再編
イタリアの統一
19世紀前半の統一運動の挫折を冷静に分析し、その後の道を切り開いたのが、サルデーニャ王国のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(位サルデーニャ王1849〜61, イタリア国王1861〜78)と、その協力者であり自由主義者として知られていたカヴール(1810〜61)であった。両者は産業の開発、修道院への課税など国内の近代化を進めるだけでなく、マッツィーニのような国際関係を無視した運動では統一は実現できないと考え、フランスのナポレオン3世に接近した。クリミア戦争への参戦はサルデーニャの国際的地位の向上に貢献しただけでなく、ナポレオン3世との関係を親密にすることになった。そしてサヴォイアとニースをフランスに割譲するかわりに、イタリア統一運動に協力する旨を約束したプロンビエールの密約 Plombière を結んだ。
内外の条件を整えたサルデーニャは1859年オーストリアと開戦し(イタリア統一戦争)、マジェンタ=ソルフェリーノの戦いに勝利したので、しだいにナポレオン3世は自国の南に大国が登場する危機を感じ、戦いの途中でオーストリアと単独で講和を結んだ(ヴィラフランカの講和 Villafranca)。このためサルデーニャはロンバルディア Lombardia しか併合できず、ヴェネツィアは依然としてオーストリアに残ることになった。60年カヴールはナポレオン3世と交渉し、サヴォイア・ニースを割譲するかわりにサルデーニャによる中部イタリアの併合を認めさせた。