ウィリアム3世(イングランド王)( A.D.1650〜A.D.1702)
王政復古期ステュアート朝イングランド王(在位1689年2月13日- 1702年3月8日)。名誉革命で招聘され、ジェームズ2世を追放し、妻メアリー2世(イングランド女王)と共同統治。オランダ統領時代からルイ14世(フランス王)と戦闘を繰り広げる。
ウィリアム3世(イングランド王)
名誉革命後に「権利の章典」を発布
オランダ統領オラニエ公ウィレムの妻は、ジェームズ2世(イングランド王)の娘メアリ。ジェームズ2世のカトリック擁護と専制政治に対し、イギリス議会が拒絶したことにより、ウィレムが招聘された。ウィレムは新教徒。イギリスに上陸したウィレムはジェームズ2世を追放し、翌年ウィリアム3世(イングランド王)として即位、メアリと共同統治を始めた(名誉革命)。
あらかじめ「議会の意思に反して課税や立法、行政などを行なってはならない」旨を議会から承諾させられ、それを「権利の章典」として法文化した。これはイギリス立憲君主制の根幹として、その後の法に大きな影響を与えた。
ウィリアム3世は、オランダ統領時代からルイ14世(フランス王)と戦闘を繰り広げ、アメリカ大陸の植民地でも戦い(ファルツ継承戦争)、スペイン継承戦争でも敵対した。
嫡子がいないまま、落馬事故がもとで没した。
イギリス議会に招かれ王位に就く
オランダのオラニエ・ナッサウ家に総督ウィレム2世の子として誕生。チャールズ1世(イングランド王)の長女メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートを母とし、自身もチャールズ1世の孫メアリ2世(ジェームズ2世(イングランド王)の娘)と結婚。この縁から、名誉革命が起きるとイギリスに招かれ、1689年イギリス議会が作成した権利宣言に妻と共に署名。王位に就いた。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
イギリス立憲政治の発達
王政復古から名誉革命へ
しかし、次のジェームズ2世(イングランド王)(位1685〜1688)の政治も専制的であり、カトリックの復活を意図しているような疑惑もあったため、1688年、議会は一致してジェームズ2世をフランスに追放し、かわってメアリー2世(イングランド女王)(位1689〜1694)とその夫でオランダの総督ウィリアム3世(イングランド王)(位1689〜1702)を共同統治の王として迎えた。両王は議会が提出した「権利の宣言」を承認し、「権利章典」として発布した。これによって、国王の権利が大幅に制約され、議会が主権を握る立憲王政が確立、絶対王政は消滅した。この革命を名誉革命という。この革命によって確立した体制は、以後、1世紀以上にわたってイギリスの社会や政治のあり方を決めることになる。さきのピューリタン革命と合わせて、「イギリス革命(市民革命)」と呼ぶこともある。
権利の章典(1689年)
1. 王は、その権限によって、議会の同意なしに、法の効力を停止したり、法の施行を停止したりする権力があるという主張は、違法である。
4. 国王大権を口実として、議会の承認なしに、議会が承認するよりも長期間にわたり、また議会が承認するのと異なる方法で、王の使用のために金銭を徴収することは、違法である。
6. 議会の同意しない限り、平時に王国内で常備軍を徴収し維持することは、法に反する。
8. 国会議員の選挙は自由でなければならない。
9. 議会での言論の自由や討論や議事手続は、議会以外のいかなる裁判所や場所でも弾劾されたり問題とされてはならない。
13. また、すべての苦情を除き、法を修正・強化・保持するため、議会はしばしば開かれなければならない。
家系図
右にスクロールします
①ジェームズ1世(イングランド王) | アン・オブ・デンマーク | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス | ②チャールズ1世(イングランド王) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
③チャールズ2世(イングランド王) | メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート | オラニエ公ウィレム2世 (オランダ総督) |
④ジェームズ2世(イングランド王) | アン・ハイド | ヘンリエッタ・アン | オルレアン公フィリップ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⑤ウィリアム3世(イングランド王) | ⑤メアリー2世(イングランド女王) | ジェームズ(老僭王) | ⑥アン(イギリス女王) | ジョージ(カンバーランド公) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
チャールズ(若僭王) | ヘンリー・ベネディクト・ステュアート | 夭逝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||