カルカ河畔の戦い 1223年5月31日 モンゴルのルーシ侵攻で、チンギス=ハンの西征中の、ジェベ、スブタイ両将軍率いるモンゴル軍とポロヴェツ族(キプチャク)・ルーシ諸公国連合軍との間で行われた戦い。 連合軍は数で上回っていたにもかかわらずモンゴル軍に惨敗した。
カルカ河畔の戦い
戦争データ
カルカ河畔の戦い:チンギス=ハンの西征中 | |
年月日:1223年5月31日 | |
場所:カルカ河畔、ウクライナ | |
結果:モンゴル帝国の圧勝 | |
交戦勢力 | |
モンゴル帝国 | ルーシ諸公国 (キエフ大公国 ガーリチ・ヴォルィニ公国 チェルニゴフ公国 スモレンスク公国) ポロヴェツ族 |
指導者 | |
ジェベ スブタイ | ムスチスラフ3世 ダニール・ロマノヴィチ ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ ムスチスラフ・スヴャトスラヴィチ ヤルン |
戦力 | |
〜20,000 | 〜35,000 |
損害 | |
ー | 25,000 |
経過
1206年にモンゴル高原を統一したチンギス=ハンは周辺の西夏や金といった国への侵略を始め、1219年には中央アジア遠征を開始した。 当時中央アジアを支配していたホラズム・シャー朝は整然と侵入してきたモンゴル軍に敗北を重ね、国王アラーウッディーン・ムハンマドはアム河を越え西へと逃走した。チンギス=ハンはこれに対し、四駿四狗の「四狗」のうちの二人、ジェベとスブタイにムハンマドの追討を命じた。 命令を受けたジェベ・スブタイ両将軍は二つのテュメン(万人隊)を率いて西進を始め、1221年にはグルジア(ジョージア)まで進んだ。 肝心のムハンマドは1220年にカスピ海中の島ですでに客死していたが、両将軍はさらに進撃を続けカフカース(コーカサス)北麓の遊牧民レズギ人、アラン人、チェルケス人(アディゲ人, カバルド人)などを破りキプチャク草原に入った。この事態にキプチャク草原の遊牧民ポロヴェツ族は北西方面に避難を始め、そのうちポロヴェツ族のハンのコチャン・カンが妻の父であるガーリチ公ムスチスラフ・ムスチスラヴィチを説得しポロヴェツ・ルーシ連合軍を組織した。影響
指揮官であるジェベ、スブタイの内ジェベはモンゴル高原に帰還する途中病没するものの、スブタイは1236年に始まる「バトゥの西征」(モンゴル帝国の東欧侵攻とも呼ぶ)で副将格として再びキプチャク草原に戻り、本格的にルーシに対する征服に取り掛かることになる。