クシャーナ朝 サータヴァーハナ朝 南インドの諸国 クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝 (2世紀半ば)地図 クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝地図
クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝地図(2世紀半ば)©世界の歴史まっぷ

大夏

月氏

西クシャトラパ

クシャーノ・サーサーン朝

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クシャーナ朝 (1世紀ごろ〜375年)

イラン系の民族クシャーナ族(貴霜きそう)は、かつて大月氏がバクトリア地方などにおいた5諸侯のひとつをだしていたが、1世紀後半クシャーナ朝初代君主クジュラ・カドフィセス(丘就卻)と第3代君主ヴィマ・カドフィセスの時代に強力となり、他の諸侯を倒して南下し西北インドを征服。2世紀半ばの第4代君主カニシカ1世の時代が最盛期で、その領域は南はガンジス川の中流域におよび、北は中央アジアで後漢と接していた。また首都をガンダーラ地方のプルシャプラ(現ペシャーワル)におき、漢とローマを結ぶ交通路の中央を押さえて経済的にも栄えた。3世紀にササン朝に圧迫されて衰え、一時復興したが(キダーラ朝)、5世紀末ころ新たにおこったエフタル民族に滅ぼされた。

クシャーナ朝

首都: タキシラ、マトゥラー、Begram

世界史対照略年表(前400〜600)
世界史対照略年表(前400〜600)©世界の歴史まっぷ

アジア・アメリカの古代文明

アジア・アメリカの古代文明
アジア・アメリカの古代文明 ©世界の歴史まっぷ

インドの古代文明

西北インドの情勢
2世紀の世界地図
2世紀の世界地図 ©世界の歴史まっぷ

紀元前1世紀に入りギリシア人勢力が衰えたころ、新たに中央アジア系の遊牧民であるサカ族(インド・スキタイ族)とパルティア族の侵入が相次ぎ、さらに1世紀の後半にはクシャーナ族が南下して西北インドを支配下においた。

クシャーナ族(貴霜きそう)はイラン系の民族で、かつて大月氏がバクトリア地方などにおいた5諸侯のひとつをだしていたが(クシャーナ族については、大月氏の中の有力部族とみる説と、大月氏支配下のバクトリアに住んでいた土着の有力部族とみる説がある。)、1世紀後半にでたクシャーナ朝初代君主・クジュラ・カドフィセス(丘就卻)とクシャーナ朝第3代君主・ヴィマ・カドフィセスの時代に強力となり、他の諸侯を倒したのちに南下し、西北インドを征服した。

このクシャーナ朝は2世紀半ばにでた第4代君主・カニシカ1世の時代が最盛期で、その領域は南はガンジス川の中流域におよび、北は中央アジアで後漢と接していた。また首都をガンダーラ地方のプルシャプラ(現ペシャーワル)におき、漢とローマを結ぶ交通路の中央を押さえて経済的にも栄えた。クシャーナ朝が発行した大量の金貨は、ローマ貨幣と同じ重量基準でつくられている。

クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝地図
クシャーナ朝 クシャーナ朝とサータヴァーハナ朝地図(2世紀半ば) ©世界の歴史まっぷ

カニシカの家系はゾロアスター教のを信奉していたが、かれはまたアショーカとならぶ仏教の保護者としても知られ、その治世に第4回の仏教結集がおこなわれたという。カニシカの貨幣には仏像やギリシア・ローマの諸神、ゾロアスター教・ヒンドゥー教の諸神の像がうちだされており、この王が宗教的に寛大で、諸民族・諸文化の混在する大帝国をたくみに統治したことが知られる。
クシャーナ朝は3世紀にササン朝に圧迫されて衰え、一時復興したが(キダーラ朝)、5世紀末ころ新たにおこったエフタル民族のために滅ぼされた。

グプタ朝と古典文化

3世紀にはサータヴァーハナ朝が倒れ、クシャーナ朝も衰退したが、4世紀に入るとガンジス川中流域にグプタ朝(320〜550頃)がおこり、都をパータリプトラにおいて北インドを統一した。

内陸アジア世界の変遷

内陸アジア世界の変遷
内陸アジア世界の変遷 ©世界の歴史まっぷ

遊牧民とオアシス民の活動

スキタイと匈奴
大月氏

匈奴、烏孫に追われて西遷した月氏は、アム川流域(バクトリア地方)に入って大月氏となったが、(なお、黄河上流地方に残留した月氏は小月氏と呼ばれた)、このことを漢代の史書は「大月氏が大夏を征服して、この地に五翕侯きゅうこう(小国)をおいた」と伝える。ストラボンの『地理誌』には、紀元前2世紀の中ごろギリシア系のバクトリア王国が「アシオイ、パシアノイ、トハロイ、サカラウロイ」の4民族によって滅ぼされたことが記されているが、「大夏」はこの「トハロイ」の音訳とする説が有力である。これによれば、月氏はトハロイ(トハラ)を征服したことになるが、一方、月氏を「アシオイ」に当てはめる説もある。また五翕侯きゅうこうについても、これを征服者月氏の諸侯とする説と、月氏に服従した先住勢力(大夏)とする説があり、結論をみるにいたっていない。この五翕侯きゅうこうのひとつに貴霜(クシャン)翕侯があり、やがて他の4翕侯を倒してバクトリア地方を統一するが、これがクシャーナ朝である。

オリエントと地中海世界

古代オリエント世界

ササン朝

ササン朝(224年〜651年)は、アルダシール1世がパルティアを倒してクテシフォンを都に新しく開いた王朝である。アケメネス朝の根拠地であったフォールス地方のペルセポリス付近からおこって、農耕イラン人を勢力基盤としていた。アケメネス朝治下のペルシア帝国の復興をめざし、イラン民族の伝統宗教であるゾロアスター教を国教に定めて、国家の統一と中央集権制の確立をはかった。その目標を実現に移したのがシャープール1世で、「イラン人および非イラン人の諸王の王」と称し、東方ではクシャーナ朝滅ぼしてインダス川西岸まで領土を広げ、西方ではシリアに遠征してローマ軍を破り、260年には軍人皇帝ウァレリアヌスを捕虜とした。

5世紀頃の内陸アジア地図
5世紀頃の内陸アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

参考

歴代王

クジュラ・カドフィセス(カドフィセス1世 – 80年頃、『後漢書』によれば80歳以上まで生きた)(丘就卻きゅうしゅうきゃく
ヴィマ・タクト(1世紀後半)(閻膏珍えんこうちん
ヴィマ・カドフィセス(カドフィセス2世、2世紀前半)
カニシカ1世(2世紀半ば)(迦膩色迦)
ヴァーシシカ(2世紀半ば)
フヴィシカ(2世紀後半)
ヴァースデーヴァ(3世紀前半)
カニシカ2世(3世紀前半、一時ヴァースデーヴァと共同統治?)

魏からの金印

卑弥呼より9年前に、大月氏の王調波(ヴァースデーヴァ1世)という人物が魏から金印をもらっている。古代インドのクシャーナ朝の王であり、その地位は相当なもの。魏が卑弥呼を高く評価していたことがわかる。

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