クラック・デ・シュヴァリエ( A.D.1142〜A.D.1171)
騎士の城(クラック・デ・シュヴァリエ)は、ヨハネ騎士団が1142年シリアに建設した城で、1271年マルムーク朝のスルタン・バイバルスによって占領された。塔をともなう二重の城壁によって強化され、広い堀で区切られている。世界遺産「クラック・デ・シュヴァリエとカラット・サラーフ・アッディーン」に登録されている。
クラック・デ・シュヴァリエ
ヨーロッパ世界の形成と発展
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初期の十字軍
騎士の城(クラック・デ・シュヴァリエ)
ヨハネ騎士団が1142年シリアに建設した城で、1271年マルムーク朝のスルタン・バイバルスによって占領された。塔をともなう二重の城壁によって強化され、広い堀で区切られている。
歴史
- 1031年 ホムスの領主により建築。
- 1099年 第1回十字軍時のにトゥールーズ伯レーモン4世により落城。イェルサレムへ向かう十字軍はこの城を放棄しているが、1110年にアンティオキア公国の摂政タンクレード(ガリラヤ公)が再度攻め落として修築。
- 1142年 トリポリ伯レーモン2世から聖ヨハネ騎士団に譲られる。
- 1170年 大規模な拡張が完成。城には50-60人の騎士と2000人の歩兵が常駐。周囲にはサフィータ、トルトーザ(タルトゥース)などテンプル騎士団の要塞、および聖ヨハネ騎士団の別の主要要塞マルガット城も位置し、十字軍国家による防衛網をなした。
- 1163年 ザンギー朝のヌールッディーンの包囲を受けたが、これを退ける。
- 1188年 アイユーブ朝のサラーフッディーン(サラディン)による包囲にも耐える。
- 1207年 サラディンの弟アル=アーディルの攻撃を凌ぐ。
- 1271年4月8日 マムルーク朝の君主バイバルスの調略により落城。バイバルスはトリポリ伯が開城を勧めていると偽り、城主と騎士たちは偽の命令に従ってトリポリに落ち延びた。バイバルスの手により礼拝堂はモスクに変えられ、城は1291年のアッコン陥落時にも前線基地として使われた。1291年にアシュラフ・ハリールによって中東から十字軍勢力が掃討された後、城はマムルーク朝の副王の居城とされる。
- 1273年 第9回十字軍時にエドワード1世(イングランド王)がこの城を訪れ、これを参考にしたエドワード式コンセントリック型の城をイングランドやウェールズに多く築く。
- 1928年 パリの碑文・学芸アカデミーが城を訪れ、最初の全面調査を実施。当時の城には500人超の農民の居住地になっており、1934年に住民の移動が完了する。
- 2006年 現在はシリア政府の所有物で、2006年にカラット・サラーフ・アッディーン(サラディンの砦)と共に世界遺産に登録。
- 2012年9月 トリップアドバイザーの企画「バケットリスト」の「世界の名城25選」に選ばれる。
- 2013年 シリア騒乱による被害のため、シリア国内の他の5つの世界遺産とともに危機遺産に登録。
- 2013年7月 シリアの内戦で空爆を受け塔の一つが破壊され、要塞の天井にも穴が開くなどの被害が出た。
参考 Wikipedia