クリコヴォの戦い
1380年9月8日、キプチャク・ハン国のママイ・ハン率いるタタール(モンゴル軍)13〜15万と、モスクワ大公国のドミートリー大公に味方するロシア諸公の連合軍約10万が、ドン河畔のクリコヴォで激突。戦うこと数時間、両軍とも多くの被害を出したが、結局ロシア側の勝利に終わった。敗れたママイはまもなくハンの地位を追われ、逆に勝利したドミートリーはドンスコイ(ドン川の)と称され、ロシアにおけるモスクワ大公国の地位を高めた。だが、「タタールのくびき」からの完全な解放には、なお1世紀を要した。
クリコヴォの戦い
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クリコヴォの戦い
1380年9月8日、キプチャク・ハン国のママイ・ハン率いるタタール(モンゴル軍)13〜15万と、モスクワ大公国のドミートリー大公に味方するロシア諸公の連合軍約10万が、ドン河畔のクリコヴォで激突。戦うこと数時間、両軍とも多くの被害を出したが、結局ロシア側の勝利に終わった。敗れたママイはまもなくハンの地位を追われ、逆に勝利したドミートリーはドンスコイ(ドン川の)と称され、ロシアにおけるモスクワ大公国の地位を高めた。だが、「タタールのくびき」からの完全な解放には、なお1世紀を要した。